#50. ため息という名の霧が立つ
中学時代に通った個別指導塾で、ため息をついたら先生にこんなことを言われた。
「伊東くん、人前でやっちゃいけないことが 3 つあるんだけど、なんだかわかる?」
「…… え、わかりません。なんでしょう?」
「それはね、ため息と舌打ちと貧乏ゆすり。この 3 つだけは、人前で絶対にやっちゃいけないんだ」
理由は聞かなくてもすぐわかった。
これらはどれも、目の前でやられるととたんに気分が悪くなってしまう。それをした人が自分とはまるで関係のない赤の他人であっても、だ。
それ以来ぼくは誰かといるとき、ため息・舌打ち・貧乏ゆすりはしないようにいつも気をつけている。
◇
だれかに教わったことというのは、時を経て今度は、自分がだれかに教えることになるのだろうか。
何年か前の夏のこと。ぼくは教職課程にあるプログラムで、都内の中学校の補習授業を担当していた。英語があまり得意ではない生徒たちに、無理を言いつつ課題をこなしてもらう。
あるときぼくが、「それじゃあ、いまからこれをやってみてくれるかい?」と言って 3 人の生徒にプリントを渡すと、その内のひとり(仮名:ゴトウくん)が「はぁ……」とわかりやすくため息をついた。
中学以来、ため息には敏感なぼくである。
「…… お?ゴトウくんいまため息ついたでしょ。それって実は、人前でやらない方がいいことの 1 つなんだけど、知ってた?」
「…… え?いや、知らなかったです」
「ちなみに、ため息以外にもあと 2 つあるんだけど、なんだと思う?」
生徒たち 3 人による小さなクイズ大会が始まる。
「わかった!あくび!」
...... ああ、惜しいね。でもあくびをされてもあまり悪い気はしないかな。あくびよりもっと不快なこと。
「なら!いびき!」
...... いや寝ちゃダメだろ。人前で眠ってたら、それはいびき以前の問題だ。
「ん~じゃあ、ウィンクとか?」
...... なわけあるか。だいいちウィンクなんて、人前でやらずにどこでやるんだ。
「正解は、舌打ちと貧乏ゆすりでしたー。ため息、舌打ち、貧乏ゆすりってセットで覚えとこうね」
「あ~なるほど」
「はい、じゃわからなかった罰として、このプリントをやってください」
一同「えぇ~!」とブーイングだったが、まあ黙ってため息をつかれるよりは、いくぶんマシだ。
◇
ため息に対する考え方は、古今東西そんなに変わらないだろうと思っていたが、万葉集の中にこんな歌があった。
君が行く 海辺の宿に 霧立たば
我 (あ) が立ち嘆く 息と知りませ
(貴方が行く海辺の宿に霧が立ったら
その霧は[貴方の]帰りを今か今かと
お待ちしながら嘆いている、わたしの
深いため息だと思って下さいましね)
人のつくため息を「霧」に喩えて表現するとは、さすが万葉の人々は洒落ている。ため息のもつイメージも、変わってくるというものだ。
それに「はぁ……」と息を漏らすことは、他人に不快感を与える行為である以前に、その人がいまなにかに嘆いていることを示す、ささやかな合図でもあると忘れていた。
目の前にいる人がふとため息をついていたら、「不快だなあ」とか「それはやっちゃいけないことだよ」などと考える前にまず、「なにかあった?」の一言が真っ先に口から出る人になりたいと思った。
舌打ちと貧乏ゆすりはともかく、「ため息をつかない」という禁則に関しては、ぼくが独りで守っていればいいことで、他人に強要することではないだろう。
◇
さてそうすると、ぼくに「なにかあった」ときには、ため息の代わりに、どうやって相手に自分の嘆きを示していけばいいのだろう。
「…… ウィンクとか?」
一瞬、そんな言葉が脳裏をよぎったが、それはやめておいた方がいいかもしれない。
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