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#71. 英語教育について話す人、についての話


実はここ数年の悩みなのだが、自己紹介で「英語が専門です」と話すと、相手と別れるまでの間に必ずと言っていいほど、「日本人が英語を話せないのは ...... 」とか「日本の英語教育は ...... 」という話をふっかけられてしまう。

「あ~英語がご専門なんですか。いまは日本の英語教育も変わってきてるみたいですよね。昔は『訳して読む』形式の授業だったのが ...... 」

あ、いやちょっと待ってください。英語が専門とは言いましたが、英語教育が専門なわけではないんですけど。

「日本人は中高で英語を 6 年もやっているのにちっとも話せないなんて、これは大問題ですよね」

あ~はい ...... まあ日本人にとって英語は難しいですし、そういうものじゃないでしょうか。あと、現状日本人の大半は英語を話せませんけど、あまり問題はなさそうですよ。

「いやいや、これからのグローバル社会を生き残るには ...... 」

う〜ん、なんかその手の話、10 年以上前からずっと聞いている気が ...... 。(まあいいか)

「だからこれからは英語を『使えるように』しないといけない」

はい、まあそうですね。(あ~、またアレが来るぞ)

「だからそのためには ......(ここから「素人のオレが考えた最強の英語教育」のお披露目が 10 分以上続く)...... 」

はい、はい、なるほど。あ、それと全く同じ話は、いままでにもう 5 万回くらい聞いたので後は大丈夫です。

...... とまあこのような感じで、だいたいみんな、日本人の英語力だとか、その原因とされている日本の英語教育を、なぜかぼくに向かって批判してくる。

英語の出来不出来にかかわらず、日本に暮らす大人の多くが英語教育に対する持論を強く持っていて、その「お考え」を開陳する場をどこかに求めているらしい。「英語が専門です」と言うことで、ぼくはそういった人たちの格好の餌食となってしまうようだ。

そんなにも熱く物申したいことがおありなら、文部科学省に直接言うか、そこに勤めるか、もしくはご自身が英語教師になればよいのでは。

ぼくは昔から、英語教育についての話に面白味を感じる感性が欠如しているので、そんなこといくら熱弁されても、「はいそうですか」としか言えないんです。ごめんなさい。

自分がどうして英語教育に関する話に関心がないのかというと、

結論から言えば、「結局どんな教え方をしたところで、できるようになる人はできるようになるし、そうでない人はできるようにならない」と思っているからである。

教え方うんぬんより、結局その人次第じゃないですか。

たとえば、先ほどの会話例と同じくらい「よくされる話」の一つに、「わたしは英語はサッパリです。いわゆる日本的な訳読形式の授業で英語を教えられて、英語を話す機会がすこしもありませんでしたから」というものがある。

が、この授業形式、ぼくの中高時代の英語の授業と全く同じなのである。

ぼくの中高の英語はずっと、教科書の英文を一つ一つ訳して読んでいく授業だった。リスニングはなく、ライティングもしない。高校に至っては、英語ネイティヴの先生が一人もいなかったので、スピーキングなどどこ吹く風。

唯一英語を「口にする」機会といえば、先生に続いて教科書の英文を復唱するという時間があったが、そのときですら当時のぼくは、周りがわざと下手くそに発音するのに合わせることを嫌ったので、口パクはおろか口すら開けない生意気な生徒だった。

こういう英語教育法は、先の会話例に出した人たちからの人気は最悪。さんざん叩きのめされてしまう、いわゆる典型的な「日本的英語教育」だろう。

しかしそれでも、ぼくはいまでは、英語を使って小説を読むし、海外のニュースを英語で聴くし、友だちに英語で LINE を送るし、彼らと会えば英語で話す。そういう風に、英語を使って生きている。

もちろんぼくだけでなく、アノ英語の授業を受けた上でなお、英語が現在使える状態にある友人は、多くはないが、いないこともない。

逆に、名前に「国際」と付いているような、英語教育にすごく力を入れた学校の生徒であっても、卒業時に全員が英語を実用的なレベルで使える状態にあるかと言えば、実際かなり怪しいだろう。

自分の経験した訳読形式の英語の授業がベストだったなどと言うつもりはない。ただ現にいまこうして英語ができているので、とくべつ批判しようとも思わない。そして、いま巷をにぎわしているような指導方法が「唯一絶対の正解」であるはずもない。

そもそも、「教え方さえ正しければ学校の授業をなんとなく受けているだけで英語が使えるようになる」という前提自体が疑問である。

英語ができるようになるかどうかは、「授業の外でどれだけ英語に触れたか」だとか「高校を卒業してからもどれだけ勉強を続けたか」という部分にかかっているので、結局どんな教育を施そうとも、できるようになる人とそうでない人は、多かれ少なかれ出てくるのである。

それから、(これは英語学習にかぎった話ではないが)どんな勉強も人によって「合う、合わない」があるものだ。

音読やリスニングなどを繰り返しつつ耳から入れるのが好きな人もいれば、たくさんの文字に触れて目から入れるのが得意な人、あるいはたくさんのことをノートを使って手で書かないと覚えられない人などさまざま。

英語ができる人たちと話していると、そこまでたどり着いた方法や道のりは本当に人それぞれで、実に色んな「でき方」をする人がいるということがわかってくる。

だから、英語教育が専門という人の「このような指導方法がいい」という話を聞いても、「まあそれがいい人もいるだろうけど、それが合わない人もいるよな」くらいにしか思わないし、

まして、いまの自分が英語ができない言い訳として、それっぽい言葉を並べテキトーに学校英語を叩いているような人の話など一つも聞く気にはならない。

学校でどんな教育を受けようが、その後も勉強を続けることで英語ができるようになった人はたくさんいる。あなたは望んだ指導を受けられなかったかもしれないし、それはたしかに不憫なことだが、そう思っているいまからだって、その気さえあれば英語は身につけられるのである。

だから、「間違っていた」と思ったのなら、その反省をふまえていまからまた勉強すればいいじゃないですか。時間はかかるかもしれませんけど、外国語の勉強はもともとそういうもんなので。

そうしてある程度できるようになってくれば、きっと「学校の英語教育のせいで ...... 」なんて言わなくて済む、はずですよ。

...... あれ、なんだか「英語教育の話はうんざり」ということでスタートしたのに、結局自分が英語教育について長々と語ってしまったな。

まあ厳密に言えば、「英語教育について話す人、についての話」という感じだろうか。

考えてみると、自分は「英語教育に関する話」はほとんどしないが、こういう「『英語教育に関して持論を持っている人たち』に対しての意見」は比較的多く持っている気がする。

もう金輪際こういう話はしないと思いますけれど、もし今後ぼくが「英語教育についての話をする人、についての話」をどこかで始めてしまったときは、「はいそうですか」とだけ言ってテキトーに聞き流しておいてください。


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