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#91. 理不尽を理不尽と思わないネイティヴ


大学時代、台湾から来た留学生と話しているとき「日本語はあまりとくくない」と言われ、一瞬困惑したことがある。

「 ...... と、とくく?(なんじゃそら)」

じつは、彼が言おうとしたのは「得意じゃない」で、外国人の日本語に慣れている人なら、彼がそう間違えた理由も、だいたい見当がつくと思う。

たぶん、日本語を勉強している多くの外国人は、「とくい」を形容詞だと考えている。

・たかい ⇒ たかくない
・ひくい ⇒ ひくくない

なるほど、法則が見えてきたぞ。

それなら「とくい」は ......

・とくい ⇒ とくいじゃない

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...... まあ、こうなるのも無理はない。

英語が母語で、日本語を勉強している人がよく「きれいじゃない」を「きれくない」などと言ったりするが、それも同じ理屈だろう。

英語には「形容動詞」という品詞自体存在しない。だから、「〇〇い」と「い」で終わる(名詞を修飾する)単語を見ると、どうしてもより馴染みのある「形容詞」というカテゴリーに入れてしまい、形容詞と同じ活用をしてしまうのだ。

台湾で話されている中国語に「形容動詞」のカテゴリーがあるかは定かではないが、これまで「きれくない」を腐るほど聞いてきたぼくは、「とくくない」が生まれた理由をこのように分析した。

考えてみると、形容動詞って不思議な品詞だ。

形容詞なのか動詞なのかハッキリしない名前だし、機能としては名詞を形容するわけだから「形容」とつくのはわかるにしても、一体どの辺が動詞なんだろう。

外国人の日本語は、日本語に対する気づきの宝庫だ。

つい先日も、アメリカ人の友人から「 “さびしい” と “さみしい” に、意味の違いはあるのか」と聞かれ、答えに窮した。

そんなこと、考えたこともなかったな。

調べたところ、「さびしい」には、「 ⑴ いるはずの人・あるはずの物がなくて満たされない気持である」という情緒的な意味と、「 ⑵ 人の気配がなくひっそりしている」という客観的な意味の 2 つがあり、

「さみしい」はこのうち、とくに前者の(情緒的な)意味で使われることが多いようである。

たしかに、「さびしい街」と言われれば、それは「人気(ひとけ)の少ない街」という風に聞こえるが、

「さみしい街」と言われると、「悲しい気持ちになる街」とか「人々がどこかしょんぼりしている街」のように聞こえてくる。

そもそも「さみしい」は、発音的に「さびしい」が変化した二次的なものなので(「( “さぶい” から転じた) さむい」や「( “けぶり” から転じた) けむり」なども類例)、

本来の形から離れて人々が生んだ副産物的な言葉の方に、より個人的な感情が乗っかるというのは理にかなっている(たぶん)。

でも「さびしい」は「さみしい」になるのに、「わびしい」は「わみしい」にならないし、「きびしい」も「きみしい」とは絶対に言わない。

「あのコーチめちゃくちゃキミしいらしいよ」と言われても、ひとつも警戒する気にならない。

どうしてだろう。「さびしい」と「さみしい」の違いについて聞かれなければ、きっと一生考えなかったことかもしれない。

外国語として言葉を勉強している人は、こういう理不尽にすぐに気づくが、母語としてその言語を身につけたネイティヴは、感覚でなんとなく使っているのでその理不尽を説明できない。

そういえば、台湾人の彼から「どうして “見せて” が “見して” になるの?」と聞かれたこともあったっけ。

…… う〜ん、まあたしかに不思議だけども、どうして?なんて聞かれてもなあ。

そういうことを聞かれても困るよ。ネイティヴは説明がとくくないので。


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