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【小説】望郷の形(1)

〈最初へ〉

 その王国が樹立された日のことはよく覚えていない。

 あの頃は確か、アトリエ代わりに借りているボロい物置きに何週間も泊まり込んで彫刻に没頭していた。取り組んでいたのは、雷で倒れた杉の神木。アトリエの裏山の小路をずっと上って、朽ち木の階段すら姿を消した獣道をさらに進むと、斜面に開けた小さな平地がある。そこは山頂の神社の神域だったが、囲いも何も無いので私は昔から度々侵入しては細い注連縄の巻かれた老木に寄り添っていた。神がそこに宿っているかどうかなどどうでもよかった。人間よりも遥かに長い時を生きる命の流れにしばし身を委ね、人間の生活を忘れた。

 夏の午後の空を裂くような雷雨が過ぎた翌朝、私は逸る気持ちで古木の元へ向かった。予感した通り、杉は無惨に、見事に、天空から巨人の斧を振り下ろされたように、真っ二つに裂けていた。

 それから先は後先も考えず本能に導かれるように動いていた。常駐していない神主を説得して杉の根から切り離されてしまった部分を譲り受け、業者に依頼して重機を駆使してアトリエまで運んでもらった。

 裂けた木材をじっくり乾燥させ、木屑に埋もれながら夢中で鋸を引いた。彫刻に専念するために会社を辞めた。やっと彫刻作業に取り掛かってからは文字通り寝食を忘れて没頭した。木材の断片のうち一つから躍動する生き物の形を彫り出し、人の尊厳ぎりぎりの状態でアトリエから這い出して、ようやく世間の騒ぎを知ったのだった。

 くすんだ色の便箋に独特な筆跡で書かれた簡素な招待状が王国から届いたのは、神木が死んで丸四年が過ぎた夏の終わりのことだった。

 アトリエを占領していた木材の全てを彫刻し終え、一連の作品を展示した個展の会期が終了した直後だった。

 手紙には「あなたにしかお願いできない仕事があります。我らの王国にぜひお越しください」とだけ書かれ、裏面に簡単な地図が印刷されていた。今後の予定は完全に空白で、仕事の依頼は何であれ有り難かった。

 懇意にさせてもらっている画廊のオーナーをしている久我に、しばらく留守にするかもしれないと一応知らせに行くと、そんな怪しさしかない誘いに乗るなんて気が触れていると怒られた。

 手紙の差出人の言う王国とは、内海の無人島の一つを占拠して突如王国の樹立を宣言した謎の集団のことだ。私は興味が無かったので言われてみればうっすらと思い出せる程度だが、設立当時はメディアがこぞって彼らの素性を探り、憶測も含め奇怪な様相がまことしやかに伝えられたという。何らかの犯罪組織ではないかとも疑われていたが、警察からは何も発表されず、島は彼らが買い取った私有地であったため、彼らの正体は霧に包まれたまま報道は下火になった。ただし人の出入りが無いわけでもないらしく、現地を訪れたという人の証言とやらが時折世間を賑わせている。

 いわく、あの島は人間を使った大規模な実験場である。

 いわく、カルト的な宗教団体の根城である。

 いわく、島民は全員宇宙人であり、地球侵略の下準備をしている。

「悪いことは言わないからやめときなさいって。噂が全部嘘だったとしても、まともな連中じゃないことだけは確実なんだから」

 久我はテーブルから身を乗り出して力説する。常識を説かれれば説かれるほど、私は天邪鬼になる。

「結構、結構。神秘に包まれた近海の孤島、素晴らしい作品が生まれそうじゃないか。期待して待っててくれよ」

 久我は聞こえよがしに溜息を吐き、ぬるくなったコーヒーを呷った。私のことを心配してくれているのはわかっている。私を「まとも」の側に繋ぎ止めようとしているのだ。私がその手を振りほどいてしまうことを予期していても。

 世間的には久我の言い分が正しい。だが、まともな人は、全然まともじゃなくたって人は案外生きていられるということを知らない。

〈次へ〉

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