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世界設定資料集 2.2 総体としての自己


 意識だけが「私」ではない。心だけが「私」ではない。様々なパーツが寄り集まった雲のような塊としての身体と、身体の作用として現れるバーチャルなものとしての精神、両者の総体が「私」である。

 こうしてものを考えている意識は「私」の表層でしかない。

 無意識が考えていることを私は知らない。心がどう動くかを私は制御することができない。

 想いは意識としての「私」の手の届かない深みから泡のようにやってくるものであり、考える「私」よりも身体に近い場所にある。

 例えば感情はまず目頭が熱いとか胸がそわそわするといった身体感覚として現れ、意識がそれに気づいて解釈することにより悲しいとか嬉しいとかいう感情として記憶される。もしも精神と肉体を完全に分離することができたとして、そのとき感情というものは少なくとも現在の感情とは違ったものになるだろう。

 精神も身体も全てつながっているが、頭で信じていることと身体が信じていることは必ずしも一致しない。足元にガラス板があるとわかっていても、あるいはテレビゲームの中の出来事だとわかっていても、地上から遠く離れた高所の景色に身がすくんでしまうことはある。意識では安全だとわかっていても、体は危険を感じているのである。

 頭で考えたもっともらしい真実も、身体が信じなければ意味がない。楽しいはずのことをしても、幸せの型にはまっても、それが身体感覚と一致しなければいずれ虚しさがやって来る。

 喜びも幸せも感じるのは意識ではない。もっと原始的で動物的な体に近い部分が感じるものであり、意識はそれに気づくだけである。

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