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フィクションとしてのエッセイ

 エッセイと銘打って、ノンフィクションの皮を被っておきながら、書いているのは創作した物語なのかもしれない。

 noteではよく心のことを書いている。こう思うのはこういう構造があるからだ、こういう過去があるからだとわかったような顔をする。

 でもそれは考え得る一つのストーリーに過ぎない。現実の一部を恣意的に切り取り、都合良くつなぎ合わせた物語なのだ。

 人間のことなんてそう簡単にわからない。トマト嫌いの人がいて、つぶつぶの食感が嫌だと言っていたとしても、種のない新種のトマトを食べてみたらやっぱり味が嫌いだったと気付くかもしれない。嫌だという感覚だけが確かで、その理由は推測でしかない。自分自身のことであっても、そのくらいの解像度しか持ち得ない。

 動物に脳があるのは真実を知るためではない。生き残るためだ。現実を把握して未来を正確に予測できれば生き延びる可能性は確かに上がるが、少なくとも日常を生きていくためにはありのままの世界の全てを知る必要はない。適度に単純化して納得しやすい理屈を付けて安心したほうが効率が良い。

 僕はエッセイと称して物語をこじつけて安心しようとしている。ある時は人間関係の苦しみを家庭環境のせいにしていても、よりもっともらしいストーリーが見つかったならそちらに乗り換えるかもしれない。

 ここで書いているものはエッセイであると同時に小説でもある。その時点で最も真実らしい嘘を書いている。

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