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正しいことを書こうとしたら一文字だって書けなくなる
エッセイを書くことに苦手意識があった。ノンフィクションとして読まれるものなので、小説や詩のようにフィクションだからという言い訳は通用しない。事実と違うことを書いて誤情報を拡散させるわけにはいかない。
なのでなるべく正確を期そうとするのだが、僕は何かの専門家ではないし、ものの見方も偏っているので、考えれば考えるほど書けることが少なくなる。
専門知識が必要ないテーマに限定すると、書く内容は個人的なことが多くなる。しかし自分のことだって確かだとは言えない。経験を書くにしても自分一人の視点から見た一方的な情報になるし、自分の気持ちだって断言できない。嬉しかったと書こうと思っても、本当に嬉しかったのか疑い始めたら、やっぱり違った気がし始める。
そうなるともう書けることが何もない。エッセイを書くという行為が不可能になる。
そんな状況が変わるきっかけになったのは、影響力のある著名人がSNSで有害なデマを撒き散らしているのを目にしたことだ。
正しいことだけ書こうと萎縮しているのがアホらしくなった。
周りの人間が沈黙を守ることによってコイツの主張が正しいことにされるくらいなら、少々間違ってても別の意見を出したほうがマシじゃね?と思ったのだ。
考えてみれば、立派に見える人が常に正しいことを言っているとは限らない。専門家だって間違うことはある。ナチスの優生学だって科学者が提出した科学的根拠とやらに基づいていたのだし、権威ある人物がとんでもないことを言い出す場合はあるのだ。
それに比べれば僕など何の権威も肩書きも背負っていないわけで、たとえ滅茶苦茶なことを書いたとしても鼻で笑われて終わるだろう安心感がある。
自分が真実だと思うことを恐れず書いて良いのだ。それが正しいかどうかは読み手がそれぞれ判断することだ。
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