見出し画像

生きるために尽くしたい

 時代精神にそぐわないかもしれないが、滅私奉公がしたいのだ。

 何にでも良いわけではないし、自分の心を殺してまで尽くしたいのでもない。何か意味のあるもののために、自分の能力を最大限に使い尽くしたい。それは人間にとって割と普遍的な欲求だと思う。

 今までの僕にとっては家族というものが無条件に自分の力を使うべき対象だった。だから自分の家族が欲しかった。パートナーシップは公に認められた奉仕の契約だと僕には見えた。パートナーに尽くすのは好ましいこととされている。誰にも責められることなく、尽くしたい欲を満たすことができる。

 近頃は夫を主人と呼ぶのは良くないとも言われるが、僕がパートナーに求めていた役割はまさに「主人」だったのかもしれない。決定権と責任を引き受け、庇護を与えてくれる、良き飼い主のような。

 同時に自分が飼い主であることも奉仕の一形態だった。犬の幸福と健康に責任を持つこと、そのために労力を割くことが、僕の生きる糧になっている。

 犬がいなくなったら、今の僕に守りたい家族はもういない。その先に残された時間をどうやって生きていけばいいかわからない。生きる意味を別に見つけなければならない。

 僕は無神論者だから、命に意味なんてないと考える。地球に生命が生まれたのは偶然で、生き延びたのは生きたかったから。命を繋ぎたかったから。生きたくなくても生きねばならないと考えるだけの本質的な理由を見つけられない。

 生きるために生きるのが本当。人間が人間になる前まではきっとそうできていた。

 生きねばならない理由を求めるのは、苦しくても生きていたいから。生きたいと生きたくないの狭間で、それでも生きようともがいているから。

 「生きたい」が生きる理由にならなくても、「生かしたい」ならきっとなる。愛するもの、自分を超える価値のあるものを消させないためになら、きっと強く生きられる。

 神のような大いなるものを愛せたら話は簡単だった。僕は多分、性格的に修道士とか結構向いていると思う。問題は神の存在を信じられないことだ。神の言葉の中に人間の支配欲を見出してしまうことだ。あと修行者の団体はたいてい男女で分かれているので入りづらい。

 神様が命に意味を与えてくれないのなら、自分で意味を決めるしかない。でも自分で好き勝手に決められるような意味じゃ、そんな無意味な意味じゃ、自分を納得させられない。だからありもしない真実の意味を探し続ける。

 それは運命の恋を探しているのにも似ているかもしれない。このために生まれてきたのだと理性を超えて確信できるような、雷みたいな出会いに焦がれている。

 相手は人でなくて構わない。芸術や学問や社会運動に身を投じられるならそれも良い。何だって良いのだ。ただし、僕の頭と心と体の全部が喜んで自身を捧げたいと感じるもの、という果てしなく高い壁に開いた針穴くらいの条件を潜り抜けられればの話だが。

 腹の底から信じられる何かに、偽りのない自分を捧げ尽くすことが、僕の幸せなのだと思う。信じたいのに信じられない疑い深い僕を強引に引き寄せ、奉仕と信頼の意味を約束してくれる何かを、力づくで僕から僕を奪ってくれる何かを待っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?