(初期)仏教を信じきれなかった理由を考える
昔から宗教的なものに興味はあった。地域や時代によって変わってしまう常識やルールではない、確かな何かにすがりたかった。
キリスト教や仏教など広く薄く調べてみて、一番しっくりきそうだったのが、古代インドで生まれた最初期の仏教だ。全ての存在は不可分なつながりで、自分という確固たるものなどないこと、際限のない欲によって満たされない苦しみが生じることなど、それまでにも何となく感じていたことと符合した。
にもかかわらず、僕は仏教を信じ切ることができていない。その理由を整理してみようと思う。
なおこの記事の目的は仏教批判ではなく、あくまで初期仏教と僕個人の精神構造との相性が良くない部分を挙げ、自分自身の求めているものは何か探ることである。
第一の理由は、真に救われるのが出家者に限定されていることだ。
仏教の教えが出家していない在家の信者にとっても意味がないわけではないが、仏教の究極の目的である悟りと涅槃は、毎日修行に専念できる生活の中で到達することを前提としていると思う。
しかし様々なしがらみのせいで、出家に踏み切れる人は限られている。釈尊は王子の立場も妻子も捨てて修行の旅に出たが、そこまでできる人はなかなかいない。古代インドと現代日本では状況も違う。自分がいないと妻子が路頭に迷います、それでも出家したいです、と言ったところでお寺に受け入れてはもらえなさそうだし、かと言って教団に属さず放浪の旅で生きていくのも難しいだろう。
日本にあるような大乗仏教では在家信者に焦点が当てられているが、その代わりに信心が必要とされている気がする。僕は疑り深い理系出身の合理主義者なので、まず理屈で納得できないと信じられない。信じる者は救われるのかもしれないが、理性を捨ててまで信じることはできない。
第二の理由は、欲を否定していることだ。
仏教が欲を全面的に否定しているのではないことはわかっている。あらゆる欲をゼロにしてしまったら生存できない。欲を満たすことに囚われ、エスカレートしていく欲に振り回されるのが良くないのだ。
しかし、自分の心を抑圧し、自分が何を欲しているのかわからなくなってしまっている人間にとっては、余分な欲を捨てようという方向性自体が危険かもしれないとも思う。下手をすると元々持っている抑圧を強めることになりかねない。誤って自分の心を殺してしまいそうな怖さがある。
指導者がいれば話は変わってくるかもしれないが、独学で学ぼうとすると方向を見誤りそうだ。まず自分の欲を知っていくことのほうが自分にとっては役に立ちそうな気がする。
第三の理由は、生存に対して否定的であることだ。
仏教の目指す涅槃とは、輪廻からの解放のことだ。生きて死んでまた生まれてくる永遠の繰り返しが苦であるのだから、もう生まれてくることがない状態が究極の安らぎである。
それはわかる。輪廻転生の世界観を信じないとしても、永遠の無である死が最も安らかな状態だというのは納得できる。
それでももう少し、生きていることを肯定したい気持ちがある。
輪廻を前提にすれば死んでもまた生まれてしまうから修行をして涅槃に辿り着かなければいけないのだが、輪廻しないと考えるなら今ここに生きている意味がない。
仏教は生きている意味を教えてはくれないように思う。これからも生きていかなければならない理由を与えてほしいのに。
最後に第四の理由は、あまり社会のほうを向いていないことだ。
宗派にもよるだろうが、仏教は根本的には自分の心を変えていくものだと思う。
地球規模での環境問題、経済のグローバル化によるしわ寄せなど、人類全体、地球全体がどうあるべきか考えた上でどう行動するか決めなければならない時代だ。自分の救いのことだけ考えているわけにはいかない。破滅に向かっていく人類に少しでも歯止めをかけたいと思う。
仏教的な世界観や倫理観からその方向性を導き出すことは可能だろうが、それは仏教自体が指し示しているものではないように思う。
どちらに向かって進むべきか決めるための指針になる思想が欲しい。人がどうあるべきか定める思想は使いようによっては抑圧になるが、全くなかったらなかったで迷ってしまう。
仏教に多くを求め過ぎだろうか。あれもこれもと我がままだろうか。
ここに挙げたような理由は、とりあえず信じてから考えれば乗り越えられるようなものかもしれない。よく知らない宗派の中に合うものがあるのかもしれない。わからないままふらふらしている。信じられるものを探している。
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