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戸籍の性別変更要件と、自分の体を自分で決めるということ

 戸籍の性別を変更するための手術要件撤廃に関するニュースを見た。手術要件を擁護する当事者のコメントが支持を集めていた。だから当事者が手術要件を支持しているという話ではなく、この現象自体が当事者に対する抑圧の強さを示していると思った。わがままは言わず、多数派に配慮して許していただかなければならない、そういう精神が染み付いているような気がした。

 僕自身は手術要件はなくていいと思っている。ホルモン治療などで既に変更後の性別で社会に溶け込んでいるのに戸籍だけ食い違っているのは現実に則していないだろう。

 そもそも性別適合手術をしたからといって、生まれつきの男女のような身体が手に入るわけではない。現在の医療で可能な限り手を尽くしても、骨格や声を大幅に変えることはできないし、変更後の性別での生殖機能は手に入らない。外見をそこそこ似せることができるだけだ。

 子孫を残す機能は失われて、それで終わり。子供が欲しい人にとっては辛い選択ではないだろうか。トランスジェンダーはトランスジェンダーであるが故に子供を持ってはいけないというのなら、それは明確に差別だろう。優生思想的でもある。

 話を戻すと、手術を受けるかどうかは0か100かという話ではなく、どう頑張っても100にはならないし、どこかで諦めなければならない。どこで諦めて折り合いをつけるかは人それぞれだ。できることは全てやりたい人もいれば、望む性別で認識される外見が手に入れば性器の形にはこだわらない人も、医学的に手を加えずそのままの身体で何とかやっていく人もいる。

 どこで折り合いをつけるかは、当人が自分と相談して決めることだと思う。望む性別で扱われたいなら臓器を捨てろと迫るのは横暴ではないだろうか。自分の身体をどうするか他人に決められてしまうのは怖いことだ。

 ただ、戸籍変更の要件が変わったとしても、それで全てが解決とはならないだろう。社会の根本に性別二元論と異性愛主義があるからだ。あまりにも多くのものが「完全な男」と「完全な女」だけを想定して作られている。あらゆる人間をどちらかに分類しないと気が済まないみたいだ。男か女かの判定なんて本来ガバガバなのに。

 ところで僕にとって戸籍の性別変更は遠い話だ。周りの人々に話して理解を得て、病院で性別違和について洗いざらい語って診断書を得て、変わっていく身体や人々の視線に戸惑い、今までいたのとは違う性別の異文化の常識を身につけて……と考えると気が遠くなる。

 最初から諦めてしまったほうが楽かもしれないと思ってしまう。現実から目を背けてファンタジーに逃避しながら、なるべく穏やかな死が訪れるのを怠惰に待つほうが。

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