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【小説】逆さまの日(真夜中の会社がカオスで猫かわいい話)

 はっと目覚めて枕元の時計を見る。七時十五分。やばい。遅刻だ。

 普段の三倍のスピードで歯を磨いて顔を洗って髪をとかす。ろくに鏡も見ずにファンデーションとチークとアイシャドウと口紅を載せる。「化粧した人」という属性が付けばそれでいい。

 クローゼットの手前のほうにあった服を適当に着て、駅へ走る。いつも同じ方向に向かっていく人たちの姿が今日は見えない。そんなに遅くなってしまっただろうか?

 息を切らせてたどり着いたホームはなんだか薄暗い。いつもは正面から朝日が降り注いで目も開けられないくらいなのに。

 タイミング良く到着した電車に乗って、窓の外を眺める。起きた時よりも明らかに低い位置にある太陽に、街並みが赤く染まっている。

 普段の出勤時なら座れないはずのシートに腰を下ろし、じわじわと湧き出す諦念を噛みしめる。ここまで来たら認めよう。午前七時十五分だと思っていた時刻は、午後七時十五分だった。

 すごすご引き返すのも癪なのでそのまま会社に行ってみることにした。日曜の宵に無人のオフィスを眺め、缶ビールの一本でも開けてやろうじゃないか。




 コンビニに寄ってから小ぢんまりしたオフィスビルに入り、階段で三階まで上がる。入口の横の装置に暗証番号を打ち込もうとして、ガラス扉の向こうから微かな灯りが漏れているのに気付いた。

 休日出勤している人がいるのだろうか? もしそうなら忘れ物を取りに来たことにしてさっさと帰ろうと考えながら、重い扉を押し開く。

 黒いモニターが遺跡のように並ぶ日没後のオフィスの中、一番奥のデスクの上に、一本のろうそくが燃えている。災害用にストックしてあるやつだろう。電気も点けずに何故――と考える暇もなく、異様なものが目に飛び込んでくる。

 回転椅子の間をジグザグに駆け回る、薄ピンクの子豚。キーボードの上で頭を抱えるパグ犬。デスクの下から顔を覗かせる白猫。

「あ、田中さんだ! 見てほら! 俺すごい!」

 ドリフトしながら話しかけてくる子豚は若手の大人しい土屋くんによく似ている。

 よく見るとデスクの上の犬はいつもイライラしている小野課長にそっくりだ。恐る恐る近付いてみると、「ママ……」と呻きながらすすり泣いている。

 足元に柔らかいものを感じて視線を下ろすと、白猫が頭をすり寄せている。

「やっと来てくれたの。寂しかった……」

 甘ったれた声で鳴く猫は、この流れでいくと白井さんだろう。飲み会は全て断り定時退社していく白井さん。

 私は白井さんを抱き上げてデスクに腰かけ、ビールの缶を開けた。こんな意味不明な状況、理解を放棄するしかない。最初から酔っていたことにしよう。

 土屋くんは小野課長を鼻で小突いて遊びに誘っている。課長は肉球をしゃぶりながら後退してモニターの下に入り込んでしまう。いつもとは立場が逆転している。

「今日は何するの?」

 膝の上の白井さんが尋ねる。

「仕事はしたくないな」

 私は何となく答える。

「仕事なんかしちゃ駄目よ。ここは遊びに来る場所なんだから」

 白井さんは私のジャケットにぱりぱりと爪を立て、働くための戦闘服を糸くずに変えていく。




「田中さん? 大丈夫ですか?」

 目を開けると白井さんの顔があった。猫ではなく人間の、見慣れた顔。

 慌てて身体を起こすと、硬い床に押し付けられていた右半身が痛む。オフィスに転がったまま朝になってしまったようだ。

「大丈夫です、うっかり寝ちゃってたみたいで……」

 私はへらへら笑ってごまかそうとする。

「日曜に仕事で徹夜ですか?」

「いや、仕事というわけでは……」

「仕事でもないのに? オフィスに泊まっちゃったんですか?」

 いつもよりよく話す白井さんの目が、チェシャ猫のように笑っている。

「おかしな夢を見たみたいで……。よかったら聞いてもらいたいんですけど、お昼でも一緒にどうですか?」

 ダメもとの誘いに、白井さんは「いいですよ」とあっさり頷く。

「いいんですか? 無理しなくても……」

 焦り出した私を見て、白井さんは可笑しそうに笑う。

「大勢が集まる場は苦手なんですけど、二、三人なら全然平気です。これでけっこう寂しがりなんですよ、わたし」

 立ち上がろうとする私に手を貸した後、颯爽と歩き去る彼女の背中に、白い尻尾が揺れている気がした。


※本作品はmonogatary.comのお題「勘違いから始まる物語」に沿って執筆したものです。

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