【小説】一周目の私を(新入社員が入ってきたと思ったら数年前の私だった話)
年度末の事務処理をやっつけた後、虚脱感と共に新年度がやってくる。
社長の語るビジョン。掲げられた理想は分解されて売上という測定可能なものに平板化される。億なんて数字を聞かされたって私に関係があるとは思えない。先週よりも五円高いもやしが私のリアリティだ。
年度が変わったからって別に新たな気持ちになんてならない。昨日までと同じように淡々と仕事をこなして、面倒事は避けて、さっさと家に帰る。明日を考えると憂鬱になるから頭を空っぽにして、また一日仕事をするための睡眠を確保する。その繰り返し。
今年もまた、だらだらと続く労働のための日々のサイクルに新しい人間が呑まれに来る。
浮き足立つ事務所。朝礼のために集まった従業員の前に立たされる、垢抜けない黒スーツの新入社員。
その顔を見て私は夢でも見ているのかと周りの社員を窺ったが、当惑した顔はどこにもなかった。
「よろしくお願いします」と頭を下げる彼女は私だった。五年前、この会社に就職した当時の。
入社二年目の子が新人の教育係につき、二人は朝からきびきびと動き回っていた。
新人がまずやることはお茶汲み。給湯室に用意されているコーヒーポットが空にならないよう気を配る。それから電話対応。三コール以内に取り、はきはきと社名を言う練習。来客対応。
どうしても気になって、私はモニターから視線をずらして二人の一挙手一投足を盗み見る。
青白い顔に張り付いた笑み。頷きながらメモを取って、二年目が冗談らしきことを言えば控え目に声を立てて笑う。
「なんかさあ、覇気がないよね。従順だけど自己主張が薄くて、つまんないっていうかさ。今の子ってあんな感じなのかなあ」
隣の席の先輩が私の視線に気付いて声をかけてきた。自分の言葉がそのまま私に対する評価だということも知らずに。
「どうでしょうね。人は見かけによらないとも言いますから」
先輩が面食らったような顔をする。
「君も言うようになったね」
先輩はそそくさと自分のデスクに戻る。私は先輩の言葉の意味を噛みしめる。こんな些細な反論さえ今まで封じ込めていたということを。心を隠す仮面の硬さを。
一ヶ月もすると新人は他の社員と同じくらいかそれ以上の残業をするようになった。深刻な顔で手元の資料とモニターに映る書類を見比べ、休む間もなく頭を動かしている。父親ほどの年齢の上司に気に入られて急に接待に駆り出されたりしているから時間がないのだろう。他の社員は気にしていないようだが、肩ががちがちに緊張しているのが私にはわかる。電話が鳴りだす瞬間、ひゅ、と息を呑む音が聞こえる気がする。
一方で二年目の教育係はのびのびとしていた。新人に仕事を任せられるようになって余裕ができたのだろう。
新人が昼休憩に出るタイミングを見計らって私も事務所を出た。午後一時近い時刻だった。
事務所から少し離れた川沿いのベンチに、黒髪をひっつめた後ろ頭が見えた。
「隣、いいかな?」
私が声をかけると新人は弾かれたように振り向き、表情筋を定位置に動かして笑顔を作った。
「はい。どうぞ」
一人分の間を空けて座り、スーパーでまとめ買いしたお惣菜を詰めた弁当箱をゆっくりと開く。新人はコンビニのおにぎりを膝に乗せたまま、職場で使っているのとは別の小さなノートを握り締めている。視線を斜め下の土に固定し、初日からずっと変わらない笑顔で。
ノートに何が書かれているのか、私は知っている。
「それ、呪いのノートでしょ」
新人の私の手がぴくりと跳ねる。
「腹が立ったこととか誰かの悪口とか、書いて発散するのもいいけどさ。あんまり本心を隠し過ぎないほうがいいよ。嫌だと思ってるんだってことを誰にも知らせなかったら、嫌なことばっかり回ってくるから」
新人の顔からは笑顔が消えていた。少し若い私が私を睨む。内に溜め込んでいる濁った怒りを注ぎ込もうとするように。
「死にたい」
食いしばった歯の隙間から漏れた小さな叫びに、今の私は「そうだね」と返す。
翌日、新人は出社しなかった。
先輩に訊いてみると彼は怪訝な顔をした。「今年はうちの部署に新人は入らなかったでしょ」と。
胸の中で何かが収まるべき場所に収まった気がした。
その足で上司のデスクに向かい、「お話があるのですが」と切り出す。
新入社員の私が、私の中で安堵の溜息を吐く。
※本作品はmonogatary.comのお題「新社会人2周目」に沿って執筆したものです。
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