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『足利尊氏』と言えば幕府をひらいた
日本史上の人物。

その一族の足利氏、「京都の将軍家」は
足利義昭が織田信長とからんで
「最後の将軍」になる。
一方で、関東の「鎌倉府」のほうは
形を変えつつ、連綿と続いていきます。
足利尊氏は、長男の義詮を京都に、
次男の基氏を鎌倉に、配置した。

本記事では、この鎌倉に向かったほう、
基氏の子孫の中から
「嶋子姫」と「足利惇氏」
を取り上げます。

この二人、生まれた時代も状況も
全く違いますが、それぞれの歴史の中で
自分の生まれ持った運命に苦しみ、かつ、
『出会い』によって苦悩を打破した…!

まず、嶋子姫のほうからいきましょう。

室町時代に関東を治めた「鎌倉府」。
しかし度重なる分裂により
その統治能力を失っていきます。

茨城県の古河市のあたりに「古河公方」
静岡県の伊豆のあたりには「堀越公方」
それだけでなく、古河公方の分家に当たる
「小弓公方」(おゆみくぼう)という家が
千葉県のほうにできる。
公方とは、将軍家、の意味です。

しかし、この戦国時代の関東地方で
急成長してきたのが、後北条氏。
北条早雲(伊勢宗瑞)をはじめとする、
北条家五代の野望!

古河公方、堀越公方、小弓公方。
くっついたり離れたりはありましたが
後北条氏の攻勢により、風前の灯に…。

1532年、小弓公方の足利義明の次男として
生まれた足利頼純は、
1538年、六歳の頃に「第一次国府台合戦」
(現在の千葉県松戸市のあたり)
父親の義明を後北条氏に殺されました。
幼い頼純は、千葉の房総半島の先っぽ、
安房の里見氏を頼って落ちのびる…。
里見氏は「南総里見八犬伝」で有名な家。

この頼純の娘が「嶋子姫」。1568年生まれ。

彼女は、もともとは古河公方の一族、
そこから分かれた小弓公方の姫ですから、
今で言う、茨城や栃木のほうにも縁があった。

嶋子姫は、栃木県さくら市の
「喜連川」というところの領主
塩谷惟久、という武将に嫁ぐ
んです。
千葉県から栃木県に嫁入り。

さて、彼女が22歳の頃、1590年のこと。
彼女の実家をおびやかしていた
後北条氏が、天下人「豊臣秀吉」により
小田原城を落とされて、倒されました。

仇敵が倒された!

ふつうなら万々歳、ですよね。
しかし、秀吉は救世主でもあれば
一家の運命を握る権力者でも、ある。

…実は、嶋子姫の夫、塩谷惟久は、
小田原城攻めに行くのが遅れていたんです。
やばい、秀吉に殺されるかもしれない。
何と惟久、妻を置いて、逃げる。

嶋子姫、まさかの置き去り…!

しかし彼女は、泣いて待つような姫じゃない。
宇都宮に行き、天下人の秀吉に会います。
自分と一族の運命を切り拓くために…。

彼女は容色優れた才媛でした。
何と、豊臣秀吉の側室にキャリアチェンジ!
今は落ちぶれているとはいえ、古河公方、
小弓公方の血をひく足利家の姫様。
もちろん秀吉にも打算があったでしょう。
名門の姫を側室にすれば、統治に役立つ…と。

彼女は、この天下人とのつながりをもって、
同じく存亡の危機にあった実家の本流、
古河公方の足利氏も救う。

…この当時、古河公方のほうは
後継者の男児がおらず、
「氏姫」という女性だけが残っておりました。
彼女は、古河公方と後北条氏の血をひく姫。

嶋子姫は秀吉に言って、自分のきょうだい、
小弓公方の「足利国朝」と氏姫とを結婚させた。

室町~戦国で別々に分かれた
古河公方と小弓公方を合流させ、
「喜連川」において存続させるのです。

天下人に使われるだけでなく、
天下人を使って、一族をつなぐ!

この喜連川の足利氏は
江戸時代にも「喜連川藩」として存続し、
明治時代にまで続いていくことになりました。
わずか五千石程度。しかし幕府に
十万石なみの大大名として遇されて、
「小さな大大名」と言われたそうです。
嶋子姫は月桂院と名を変え、1655年まで生きる。

…さて、時代は下り、明治時代になりますと。

喜連川藩は1871年の廃藩置県で無くなり、
栃木県の一部となる。
1876年(明治9年)、当主の足利聡氏は、
家督を於菟丸(おとまる)に譲って隠居。

わずか8歳で足利家を継いだ於菟丸。
父の実家が水戸徳川家である関係上、
(徳川斉昭の子どもが
養子として喜連川家に入っていた)
東京の水戸徳川侯爵家で暮らしました。

元大名は華族。足利於菟丸、子爵になる。

名門足利家で、水戸徳川侯爵家育ちです。
謡曲、小鼓、狩猟、カメラ、書道。
多趣味でした。しかも子だくさん。
家計がかなり苦しくなったそうです。

そこで於菟丸、働きに出る。
早稲田大学附属早稲田工手学校
(現在の早稲田大学芸術学校)という、
理系技術者育成学校の講師になります。

華族なのに、技術者の先生!
足利於菟丸、波乱万丈のキャリアですね。
この於菟丸の長男が、惇氏(あつうじ)

彼は1901年(明治34年)に生まれました。
大正~昭和の時代を生きた人。
何と昭和天皇と学習院で「ご学友」。
一緒に相撲を取った仲だそうです。

…しかしですね。戦前の教育において、
足利尊氏は逆賊、反乱者扱いです。
その「賊軍」の血を引く者が、
昭和天皇と一緒の学舎で学ぶ…。
かなり、辛い思いをした。

例えば歴史の授業の時。
教師は、足利尊氏を悪く言います。
そのたびに、クラスの友達が
惇氏のほうをチラチラ見てくる。
衝撃。絶望。自分は「賊の子孫」…!?

父親の於菟丸は、理系の先生ですから、
息子に理系の道に進むように言います。
進路に悩む青年惇氏。彼の取った行動とは!

家出です。

中学卒業後に実家を飛び出して、
長崎県平戸市の寺で、仏門に入った。
ただし、華族の長男ですから、
簡単に出家することは許されなかった。
寺にこもる惇氏。出てこない…。

そんな彼を説得しに来たのが、
榊亮三郎という京都帝国大学の先生でした。
榊教授、足利惇氏に向かってこう言う。

「…君は仏教に興味があるのか!
ならば、私の下で、サンスクリット語を
勉強してみないか?

そうすればお釈迦様がどのような言葉で
説教をされていたのかわかるだろ?」

そう、榊教授は古代インド研究の第一人者。
彼の説得によって心を動かされた惇氏は、
京都に行き、学業に専念することに。

…後に惇氏は榊教授の後継者となり、
インド学・イラン学の大家、
東海大学学長、日本オリエント学会会長、
学問の世界で華々しい成功を遂げます。
1935年に、子爵家、足利氏当主も継承。

最後に、まとめましょう。

本記事では、運命に翻弄されつつも
家を継ぎ、継がせた二人を紹介しました。

嶋子姫と惇氏。秀吉、榊教授という
偉大で強烈な人物により、
運命を自分で切り拓いた二人!


ちなみに嶋子姫は千葉県の君津や
「美肌の湯」喜連川温泉のPRにも
一役買っています(下の動画からぜひ)。
彼女は、現代にも生きている。

…キャリアにおいて、人との出会いは
とても大きな意味を持ちます。

読者の皆様のキャリアにおいて、
大きく関わる人物は、誰ですか?

※嶋子姫と氏姫については、
小説家の神家正成さんが
『さくらと扇』という小説を書いています↓

「喜連川藩」についてはこちらの記事を↓
『喜連川藩の数奇な運命』

「関東地方の戦国時代」についてはこちら↓
『関東八屋形』の運命

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