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カボチャは、カンボジアから来ました。

「この野菜はカンボージャ産です!」
「カ、カン、ボジャ…?」
「カボーチャ…?ですか?」
「そうか、この野菜は、カボチャか!」

こんな感じで、普及する中でなまって
カボチャ、と呼ばれたそうです。

一説によると1548年、
豊後国(今の大分県)を治めていた
大友宗麟という大名の下に、
ポルトガル人が来航して貿易開始。
その際に献じられたのが、
シャム(タイ)の東の国、
カンボージャ産のカボチャだったとか…。

ということは、もしこの時の野菜が
シャム(タイ)産だったら?
シャム、と呼ばれていたのでしょうか?
歴史にifはありえませんが、
そんなことを考えたりもします。

しかしなぜ、ポルトガル人は
はるばる日本までやってきたのか?
本記事では、このカボチャを切り口に
ポルトガルの歴史について考えます。

ポルトガルと言えば、スペインと並んで
「大航海時代」を牽引した国、ですよね。
スペインは主に「西」。
ポルトガルは「東」方面へと進みます。

1415年、北アフリカのセウタを征服。
アフリカ大陸の西と南を押さえて、
1488年には南端の喜望峰を回る。
今の南アフリカ、ケープタウンです。

1498年、ついにインドに到達!
カリカット(現コーリコード)に
到達したのはヴァスコ・ダ・ガマ

その後、1510年にインドのゴアを占領。
1511年には東南アジアのマラッカを占領。
1513年に初めて中国の広東に来航。
1518年にはセイロン(現スリランカ)、
1520年に東南アジアのティモール島を獲得…。

その進撃の中、日本に色々「伝来」させます。

◆1543年 鉄砲伝来(イゴヨサンかかる)
◆1548年 カボチャ伝来
◆1549年 キリスト教伝来(イゴヨク広まる)

高名なザビエルはスペイン生まれですが、
ポルトガル国王の依頼によって
1542年にインドのゴアへと向かいました。
その延長で、はるばる日本にやってきた。

1550年、日本の平戸に商館をひらく。

1557年、中国のマカオの一部で、
当時の明王朝から居留を許されています。
これが「ポルトガル領マカオ」の起源。

…東に勢力を伸ばす一方で、
大西洋を越えたポルトガル人もいる。
カブラルという船乗りが
1500年にブラジルの地に到着。

東はマカオ。西はブラジル。
アフリカ、インドや東南アジアの
重要な土地も押さえ、まさに絶頂期!

1494年にはスペインとの間に
「トルデシリャス条約」を結んで
縄張りを決めていました。
西アフリカのセネガル沖から見て、
東がポルトガル、西がスペイン。
世界を半分こするんですね。勝手に。

ざっくり言えば、
アフリカ~インドの「東」はポルトガル。
新大陸~東南アジアの「西」はスペイン。

ただブラジルは、ぎりぎり
ポルトガルの縄張りに入ります。

…こうして16世紀、
「ポルトガル海上帝国」の天下は
固まったかに見えた。だが、しかし。

1578年にアフリカのモロッコで
「アルカセル・キービルの戦い」
が起きて、潮目が変わります。

当時の国王はセバスティアン一世です。
彼は敬虔で純粋なキリスト教徒。
「十字軍」の戦士を夢見て
北アフリカに攻め込むんですね。
…そこでモロッコ軍に惨敗する。

国王セバスティアン、行方不明…!

急遽、後を継いだのはエンリケ一世ですが、
老齢だったため1580年に死去…。
彼の後継ぎがいなかった。

そこでなんと、隣国スペインの国王
フェリペ二世が
ポルトガル国王を兼ねることになる。

いわゆる「同君連合」です。
つまり1580年~1640年の約60年間、
ポルトガルはスペインに飲み込まれていた…。


こうなればトルデシリャス条約などの
縄張りもへったくれもない。
スペインは、いつでも
世界のどこかで日が昇るという
「太陽の沈まぬ国」となった。
日本で言えば関ヶ原の戦いの前後です。

…この頃の日本では、九州の大友宗麟が
1578年に洗礼を正式に受けて
「ドン・フランシスコ」と名乗っている。
キリシタンがどんどん増えていきます。

同じく東北の英雄、伊達政宗は
1613年に徳川家康の許可を得て、
「慶長遣欧使節」をローマに送る。
メキシコからスペイン、ローマへ…。
使節団の支倉常長(はせくらつねなが)は、
太平洋と大西洋を横断した人物です。

スペインの光輝く栄光の中、
ポルトガルは歴史の闇へと消える…
かに見えました。

ただし「盛者必衰」は世の常。
スペイン包囲網ができ上がります。

1588年には「無敵艦隊」が英国に敗れる。
1609年の「オランダ独立」は、
1648年に正式に承認されてしまう。
フランスとも戦う。

そしてポルトガルの地でも
「王政復古戦争」が起きます。
1640年、同君連合解消!
ポルトガルが復活するんです。
「ブラガンサ王朝」と呼ばれるこの国は、
1910年に革命が起きるまで続きました。

…日本ではどうなったか?

政権を握った徳川家、江戸幕府は
オランダを重視し、スペインとポルトガルを
締め出す方針を取ります。いわゆる鎖国!
1637年~1638年の島原・天草一揆で、
キリシタンたちは撃滅された。

また、インドにはイギリス、
東南アジアにはオランダが勢力を伸ばす。
徐々にポルトガルは
東からの撤退を余儀なくされていく…。

(東ティモールとマカオは保ちますが)

その代わり、ブラジルの経営や、
後にはアフリカの開拓へと力を入れます。

…しかし、18世紀のポルトガルは
世界各地で植民地を握った大英帝国、
イギリスに経済の主導権を握られていました。
せっかくブラジルで金鉱が発見されても、
その金はイギリスに吸い取られた。

国内では少数の
貴族や聖職者が栄華を極める。
格差が広がる。不満も高まる…。

そんな中、1789年にフランス革命が勃発。
ナポレオン軍がスペインやポルトガルに
攻め込んできます。
首都のリスボンは制圧される。

ポルトガルの王室はブラジルへと脱出。
以来、1808年から1821年までの間、
南米の「リオデジャネイロ」が
ポルトガルの首都になった
のでした。

膨張と縮小、栄光と挫折にあふれる
ダイナミックなポルトガルの歴史…。
最後にまとめます。

本記事ではカボチャの話を皮切りに、
「大航海時代以降のポルトガルの歴史」
の一部を書いてみました。

1999年、中国にマカオを返還。
2002年、東ティモールが独立。

500年以上にわたる植民地は消滅しました。

日本においても、言葉の一部に
ポルトガル語由来の名残があるだけ。
カボチャ、カステラ、カッパ、
カラメル、カルタ、コンペイトウ、
サラダ、シャボン、ジョウロ、
タバコ、チャルメラ、チョッキ、
ビロード、ブランコ、ボタン…。

皆様も次にカボチャ料理を食べる際には、
ポルトガルの悠久の歴史に
想いを馳せてみてはいかがでしょうか?

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『ジャガイモが動かす世界 ~アンデスから月面まで~』

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