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人は自由なのか? ~実存と構造の論争より~

自由に生きつつ、同時に、自由ではない…。

何とも矛盾している表現です。しかし、
皆様も感覚的にそう感じるケースが
多いのではないでしょうか?
皆様はいま、自由ですか?

「人は自由に行動できる生き物です!
本能に縛られて自らを焼いてしまう
『飛んで火に入る夏の虫』ではない」

そういう考え方は、
人間は「自由である」ことをこそ
重視する考え方です。

「いや、人は自由に見えて、
実は生まれ持った本能や特性や、
外部からの縛り、構造に左右されている。
そのような『見えない構造』をこそ
理解することこそが大事」

そういう考え方は、
人間は実は何かに縛られる存在で、
それをきちんと理解した上で行動しよう!
という考え方です。

どちらも一理ある、ように私には思われる。

自由だから、何でもできる!と
自分の想い、欲望のままに振る舞っていては
「我がまま」だと批判されがち。

でも不自由だから、どうにもならないからと
声も上げずに我慢、他人の言うがままだと
「奴隷根性」だと批判されがちです。

実は20世紀には、このような論争が
よく行われてきたんですね。
哲学用語っぽく表現すれば、
『実存主義』VS『構造主義』。

本記事では、この二つの考え方を
比較分析する形で深掘りしていきます。

まず『実存主義』からいきましょう。
代表的な哲学者は、
ジャン・ポール・サルトル。

1905~1980年。フランスの人です。
有名な言葉を先に挙げます。

◆『実存は本質に先立つ』
◆『人間は自由という刑に処せられている』

1945年、サルトルが40歳の頃に
第二次世界大戦が終わる。
戦時中、フランスはドイツに占領された。
不自由だった。
その中においてサルトルは、
「自由」について考えていきます。

…ふつう、この世の中にあるものは
「本質」と呼ばれる特性があります。
例えばイスがある。座るためのもの。
これが「本質」。
イスには存在する「前」から
「座るものだ」という本質が与えられている。
座れなければ、イスじゃない!

ところが、人間は違う。

まず存在があるのだ、とサルトルは言います。
生まれた時点では「こう生きるべき」という
本質は何も決まっていない。白紙。
人間は、自分の意志や選択によって
アイデンティティを「つくっていく」。

ゆえに『実存は本質に先立つ』と言う。

人間は自由に生きられる!

…ところがサルトルは、必ずしも
この自由を素晴らしいものとは言わない。
自分で自由に選択できるから「こそ」、
責任が発生する。
自由な選択には厳しい責任がともなう…。

『人間は自由という刑に処せられている』。
そう表現するんです。

かつ、現実においては
自由であるはずの人間が、
自分で選択していないのに「いつの間にか」
状況に「拘束」されています。

それは他人がいるから。
他人のまなざし、視点が、自分を縛る…。
『地獄とは他人である』とサルトルは言います。

しかし、それでもなお人間は自由…。
現在の状況から自分を「開放」し、
新たな状況へと自分を「拘束」できるのだ、と。

はい、ここまで、ものすごくかいつまんで
私なりに「実存主義」の
サルトルの思想を書きました。

次に「構造主義」の代表的人物、
クロード・レヴィ・ストロースについて。

1908~2009年。ベルギーの人です。
ユダヤ人の家系に生まれた。
ゆえに第二次世界大戦では
迫害を逃れ、アメリカ合衆国に亡命します。
人類学や社会学を研究していく。

彼は、ソシュールという人の
「構造」という考え方を
人間社会に応用します。


「構造」とは一人一人の個人ではなく、
組み合わせた「関係性」「枠組み」そのもの。
社会や文化という全体の構造から
人間を見る。まず、構造ありき。
その中での差異こそが個人とみなしていく。

レヴィ・ストロースは
いわゆる「未開」と呼ばれていた土地に行き、
そこの社会の「構造」を研究しました。

そこには、それぞれの土地に合った
構造、ルール、文化があった。
「自称文明国」から見れば、そこは未開。
しかしその土地から見れば、
自称文明国こそが未開。
どちらが上でどちらが下、とは言えない…。
(今の言葉なら「多様性の尊重」でしょうか?)

彼の有名な言葉に、

◆『世界は人間なしに始まった。
人間なしに終わるだろう』

というものがあります。

…実存主義とは真逆。
自由な「私」の存在を否定する。
個人では動かせない、動かしようもない、
見えない構造、文化、ルール。

そういったものを重視する考え方。

(余談ながら、これが後に
「世界システム論」や「地政学」などに
重なったりしていきます)

さて当然ながら、この真逆の二つの考え、
『実存主義』と『構造主義』は
ぶつかります。論争する!


1962年、レヴィ・ストロースが
サルトルを、強烈に批判しました。

◆サルトルは「主体偏重」である!
◆あまりにも「西洋中心主義」だ!

それぞれの個人(主体)は重要ではない。
主体と主体との間にある
「構造」を理解することこそが重要なのだ。
主体が使う「言葉」は、
実は、それぞれの社会で生み出された
「構造」により左右される。
ゆえに、絶対的な主体、
自由な個人、主体などありえない!と。

さらに、どんな民族、社会においても
独自の「構造」を持っている。
ゆえに、ある地域が一方的に考えた構造で、
他の地域独特の構造に対して
優劣をつけることは無意味なのだ…と。

この批判、比較を踏まえて、
読者の皆様はどう考えましたか?

「…でも、人間は自由でしょ?」
「いや、結局、人間は
色んなものに縛られて生きているのでは」
『個性』『個人』って何?」
「自由に行動する、といっても、
結局は生まれ持った遺伝子、個性、特性
大部分を縛られてしまう…?」
「それぞれの社会でも、使う言葉
歴史や地理にも左右されるよね?」
「個々の『会社』『組織』構造は?
社風や文化、使っている言葉が違う…?」

様々な問いが生まれると思うんです。

個人と会社(組織)の関係もそうです。
「個人を縛る」会社もあれば、
「比較的自由にさせる」会社もある。
SNS上の「個人」と「つながり」はどうか。
「個人」が主なのか?
「リンク」「関係性」こそが主なのか?

実存か、構造か。

どこまで自由に振る舞える?
SNSでは、常に「他人のまなざし」がある…。

広げ過ぎて、まとまらずにすみません。
最後に、無理やりまとめて終わります。

本記事では『実存主義』VS『構造主義』
の枠組みの中で比較分析しました。

皆様は、どんなことを考えましたか?
…地獄とは、自由とは、縛りとは何か。
実存とは、構造とは、何でしょうか?

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