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ローマとギリシア - 古代世界の勝者はどちら?

本記事は私の運営サイト「歴史探求工房」より転載している。
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最もnoteのほうがプラットフォームとしては素敵なので見向きもされないかもしれないが…

歴史概説

 ここではできるだけ多くの方に理解していただくために、かなり内容をかいつまんで説明する。そのため正確な理解を求める方は山川の詳説世界史や入門書としての新書、単元に特化した学術専門書を読んでいただきたい。

高校世界史 – 古代ギリシア

 時は紀元前8世紀、エーゲ海(現在のギリシャとトルコの間にある内海)に興ったクレタ文明・ミケーネ文明が謎の民族「海の民」の襲来を受けて滅んだ時代。突如として歴史の記録が出現する。

 その民族は共通の神話体系を持ち、自らを神話の英雄ヘレンの子孫「ヘレネス」と呼んだ。異民族のことは、わけのわからない言葉を話す者どもという意味の「バルバロイ」と呼んだ。このヘレネスたちの残した文明を現代の我々は「古代ギリシア文明」と呼ぶ。

現代の我々が古代ギリシアを学ぶ理由

 ざっくり言えば、現代の政治が運営される仕組みの基礎を作ったためだ。

 ヘレネスたちはポリスと呼ばれる都市国家を形成した。このポリスがエーゲ海沿岸の各地に興った。スパルタやテーベ、そしてアテネなどだ。この都市国家を運営する政体は王政、貴族政、僭主政を経て、現在にも引き継がれた「民主政」に至る。現代と違う点は市民による直接民主政である点くらいだろう。選挙という仕組みが紀元前からあり、現代にも引き継がれているのはよくよく考えれば驚きだ。

 ただし、市民はその都市国家にいる人すべてを指すのではなく奴隷は除かれること、税として兵役の義務を背負っていたこと、そもそも国家の規模が違うこと、現代のすべての国家が民主政を敷いているわけではないことなど考慮すべき前提条件が様々あることには注意だ。

高校世界史- 古代ローマ

 神話における起源は、ギリシア神話と共通の世界から、軍神マルス(ギリシア名:アレス)を父に持つロムルスの名が由来とされる。今でもイタリアの各地に遺構が残っていることから、その土木建築技術の高さがうかがえるだろう。

現代の我々が古代ローマを学ぶ理由

 建築よりも世界に与えた影響はその政治史の結果ともいうべき、版図の拡大・植民地や属州の形成と支配体制だ。今でもアメリカやイギリス、間接的には戦前の日本にも法整備・政治方針の面で超多大に影響を与えている。ローマが行った支配の歴史はアフリカやアメリカ、アジアがなぜ植民地と呼ばれていたか、なぜイギリスが史上最大の帝国になれたか、など現代の国際政治を理解するのに必要な大前提の基礎となる。

高校の歴史解説と違う点

 大事なポイントは、ギリシアもローマも【消えていない】ことだ。

 歴史の授業ではギリシアもローマも表舞台から消えてしまうため、滅んでなくなったような印象を受ける。だが、よく考えてみてほしい。アテネもローマも現在に至るまで残っている。それに、歴史の授業として当時の話を現代にいたるまで詳しい話が残っているではないか。この事実こそ滅びから免れた何よりの証左ではなかろうか。

古代世界の勝者

 では、ローマとギリシアどちらが勝者となったか。そもそもの勝利基準から多角的に分析する。

人口編

 ローマ帝国の経済・交易は果たしてどの都市・エリアが繁栄していたか?すべての産業の基礎となる人口の面からみていきたい。この際に着目したいのはその土地・都市の豊かさだ。そのため基準となる数値は人口密度だと考える。この観点で紀元14年のデータを見ると、ギリシア・アナトリアなど東方地域が西方地域よりも多くの人口を抱えていた。なぜなら、東方地域はローマの征服以前に都市化して既に発展していた地域だったからだ。民主政の始まりたるアテネ、セレウコス朝の首都アンティオキア、プトレマイオス朝の首都アレクサンドリア、例を挙げれば想像に容易いだろう。

 一方で西方地域は都市国家が成立していたイタリア半島を除けば、土着のガリア人やイベリア人、北アフリカ西部のベルベル人、騎馬民族のゲルマン人が支配地域の多くに住んでいた。彼らはローマ支配以前の時点では都市化していなかった。(カルタゴは滅ぼされてしまい地図上から消えている)そのため人口密度という面では貢献していないのだ。もちろん都市化した後はラテン人やゲルマン人の流入があり人口の伸び率は高かったが、帝政初期においては過疎地域であった。

 以上のことから、人口の面ではイタリア半島のラテン人を除けば、多くが東方出身者であり、コイネー(ギリシア語)を話す人々がローマの中にも多数住んでいたことがわかる。この事実が政治編・学術編に大きく関わってくる。

政治編

 ローマはかなり多くの哲学や政治手法などをアテネなどギリシア地域に留学して学び取るということを積極的に行ってきた。その点ではギリシアのほうが発展しているといえるだろう。しかし、ローマは対ギリシア戦争で勝利し、その土地を我が物とした。戦争も外交の一種といえる点では、ローマが勝者となり地中海を内海として抱える大帝国として君臨した。

 だが、帝政以降、とりわけディオクレティアヌス帝の時代は顕著に、ローマという都市は重要視されなくなった。皇帝はローマの外にある自身の私邸から指令を送るようになっており、ついぞローマに足を踏み入れなかった皇帝すらいる。コンスタンティヌス帝に至っては首都をローマからコンスタンティノープルという元ギリシアの植民都市に遷した。この結果を見るに、果たしてローマは政治的に勝利したといえるだろうか?
 私は弛まぬギリシア人政治家・思想家による勝利なのではないかと考える。コンスタンティノープルを首都とする帝国はその後1000年もの間存続したわけだが、その政体は官僚機構という東方・ヘレニズム風の行政機関を備えた専制君主制だった。

 しかし、コンスタンティノープルは攻められ、イスラム帝国の版図に加わった。そしてその後の世界を支配したのは、古代ローマに端を発する「植民地」を形成したスペイン、イギリス、フランス、アメリカという帝国だった。この事例を挙げれば、現代においては古代ローマが勝利している状態であろう。

学術編

 ローマはギリシアに学んだ、という表現から学術の中心はギリシア地域で発展した。政治的には対立すれど、経済的に発展したギリシアを含む東方地域、アテネやローマ帝国第3の都市と言われたアンティオキアでは学術が発展し続けた。特にアレクサンドロス大王の名を冠したローマ帝国第2の都市アレクサンドリアでは「ムセイオン」という学術機関が発展し、ネロ帝の家庭教師セネカのほか多くの学者を輩出した。

 また、ヨーロッパ中世を支配した「神学」の中心地はこのアレクサンドリアで学んだ神学者が多く、遠く離れたコンスタンティノープルに招聘されて公会議が何度か開かれていたのである。マニ教からの改宗者アウグスティヌス、ニケーア公会議にて正統教義を争ったアタナシウスとアリウスもアレクサンドリアの学者であった。

まとめ

 ローマは古代史上の頂点に立ち、栄華を極めた。だがその内側ではギリシア文化が静かに染み渡り、都市国家ローマから帝政初期に受け継がれた元老院支配の伝統はギリシア・ヘレニズム文化にシフトしていた。コンスタンティノープルへの遷都がそれを象徴しているだろう。だが、ローマの政治思想はローマを蹂躙したはずのゲルマン民族が引き継ぎ、のちの帝国の形成に至った。思想が生き残るという面ではローマが勝利したといえるだろう。

 以上、ローマとギリシアの関係性と歴史についてザックリ解説した。書いてみて中々難しいことに手を出したな…と感じている。


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