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タスクの消化は心の昇華

今日という休日に、なんとなくやる気がみなぎり、溜まり過ぎていたタスクを消化した時に感じた、この世の真理について。

先日、「やりたいことをちょっとししかやらない」という内容の記事を書いた。それに少しつながる話だなと思いながら、これを書き始めることにするが、そんな今日も心が幾ばくか晴れやかなのは、溜まっていた仕事や私事を休日に消化できたからである。

やりたいことをちょっとししかやらない」という考え方も人を選ぶが、溜まっているタスクがいつまで経っても残ったまま、もしくはタスクが積み上がっていくという状況は、神経質で完璧主義な自分にとってはとても心がざわつくものなのである。

だいたい、どんなタスクであろうがほとんどの場合、たくさん積み上がっていようが、どうってことのないものばかりのはずなのに、自分はどうもそういった状態になると、漠然とした不安に苛まされることになるのである。


不安の正体は「自分が分からないもの」

不安とは一体なんだろうか。不安の多くは「得体の知れない何かと対峙しなければならない」時に発生しているように思う。大昔なら、自然災害に代表されるような、得体の知れない自然の驚異対して人々はとても不安に感じていたように。また現代のビジネスマンなら、結果が問われるビックプロジェクトにアサインされたり、同僚との人間関係に悩むだったりするだろうか。得体の知れないというより、「結末が分からない」「どう思われているか(評価されているか)分からない」の方が正しいかもしれない。要するに自分がわからないものは不安につながるということ。

その不安のメカニズムと、タスク消化がどうつながるのか?
それは自分が完璧主義であることの証左でしかないとも言えるが、タスクが消化されていない状態すなわち、ものごとが完全に終わっていない状態が、未来の結末がどうなるかわからないという不安を引き起こすことになる。

先日、別の意味で心をざわつかせながら支払った自動車税。この納税というタスクを未消化のままにしていた場合、無意識であってもどこか心の片隅で、納税を忘れて督促が来るかも知れないという不安を抱えているわけで、こういった無意識レベルのちょっとした不安がチリツモで積み上がっていけば、自分でさえも理解できないほどの、漠然とした大きな不安に苛まされることになるのである。

だから、やるべきことをやらないと、不安が少しずつ積み上がっていき、やがては漠然としながらも大きな不安がつきまとうことになる。

我々現代人にとって不安は常に付き物である。不安から逃れることはできない。でも不安をできるだけ減らしたり抑え込むことは可能だ。
やるべきことをやることで漠然とした不安がやわらぎ、徐徐に自分の心が整ってくることが分かるだろう。

心を整えるということは、自分の心を満たすための準備運動のようなもの。心が整っていないと、良い出来事があったとしても十分に心を満たすことはできないだろう。


・・・結局、「自分の部屋をきれいに片付けられて正直いい気分」と変わりないんじゃないかと思えてきたので、今日はここまで。

最後までお付き合いありがとうございました。

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