コトバは時に。戦争の交響曲。

言葉というものには、通例意味がある。

言語には文法がある。

だけれども、時には、そういう、取り決めやしきたりを超えて、相手に届く事もある。

特に、直接、対峙して交わす言葉なら、仮に、ありがとう、という音列の意味が分からずとも、感謝の気持ちは、相手にも届く事は、少なくもないだろう。

だから、取り決めやしきたり、意味とか文法なんてやくざなものは不要だ、と言ってみたところで、喧嘩は全て口先では収まらずに、暴力に終始するに違いないし、カラマーゾフの兄弟どころか、鬼滅の刃だって、面白く読むのが難しくなる。

僕は、外国人が観る様に、能楽を眺めて、時に心底、心を奪われもするのだけれども、その心の揺らぎが、幼少から家元に学んで来た様な、骨の髄まで能楽を噛み締めている様な人達よりも、素敵な事であるかは、怪しいものだと思う。

ジャンルを超えたスターが生まれないのは、その界隈が所詮は村なのだ、とも言われるけれども、村よりも遥かに世界は拓かれてはいるけど、必ずしも、より深く掘られているかも、また危ういものなのかも知れない。

そういう詰まらない事を考えながら、音楽を聴く癖が、どうも私にはあるらしい。

そして、自分は不器用な人間らしいから、絵画も映画も小説も漫画も、その延長線上で有り難がっている。

飛び交う報道も、歴史も時代も、平和も戦争も、俺にはそのしきたりすら解らんものです、と本気で信じている。

信じるという事も疑ってはみるのだけれども、正しい疑い方を会得した訳でもないから、最後は思い込んでいるだけだ。

そんな我を、デカルトくらい誠実に生きていれば、まだしも殊勝な事だと思いこそすれ、僕は、仕方がなく考えさせられるタイプの葦に過ぎないから、自分というものが、ない。

オリジナリティーが無いことに、今更、驚きもすまいけど、真似る言葉すら、多くを知らない。

漠然とした疎外感が、人生の友であり続けるのも、きっと、しきたりをきちんと習得しなかった怠惰と、そもそもの情報処理能力の不足のハイブリッドのせいだろう。

それでも、伝わるものは、少なくない。

感動とは、そういう安直な装置、愚生の救いであるから、ありがたい。

だから、映像というものも、見方は分からずとも、感動のしようはいくらでもありそうだ。

理屈を超えたインパクトが動画にはある、というのは、人類が未だ映像のお作法を十全に整えられていないから、経験の蓄積が微小だからに過ぎない気もするし、人は目に頼って生きている証しとも取れる。

言葉は意味を知らなければ届きにくいけど、映像は意味を知らない方が届きやすい事もありそうだ。

それは、映像が殆ど現実だからではないかと思う。

そして、僕らが歴史に託すのは、現実ではなくて、常に殆どの部分の方で、それをどう処理するかの問題こそが、言ってしまえば文化の正体という気がしている。

現実とのずれ、虚像こそが、一大事だ。

人間が歴史から学びにくいのは、虚像よりも実像の方が、一見して、確かなものと映るから、とも限らない。

取り決めやしきたりを超えて届く、ありがとう、という音列の生データこそが、今日という現実、時代の正体なのだと思う。

それは、さようなら、でも、殺してやる、でも、同じじゃないか。

チャイコフスキーの1812年という大管弦楽スペクタクル作品の上演取り止めが、相次いでいるそうだ。

そんなニュースを目にしたら、久し振りに、ベートーヴェンのウェリントンの勝利、所謂、戦争交響曲が聴きたくなった。

これは、生前、ベートーヴェンの大人気ヒット作だったのが、今では、駄作の部類に成り下がっている。

こういう音楽を無邪気に愉しめる、って事が粗暴な事かは分からないけれども、今日という世界情勢には、センシティブに響くに違いない。

手持ちの音源は、スロバキアのオーケストラがクレジットされているけど、データが信用できないレーベルからの一枚なので、本当に彼等の録音かは分からない。

聴く限り、とても素晴らしい演奏だったので、スロバキアの楽人に違いないけれども、今日は、確かさというものを重んじて、↓の張り付けは、スイスの楽団の演奏を。

https://youtu.be/_NsQsveoFx8

一聴して、とても分かりやすい音楽。

文法を解する必要のない明朗さ。

勿論、そこには、ベートーヴェン一流の語法があるのだけれども、それは、戦争にも流儀があるのと一緒くたにしたって構うまい。

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