渡辺貴裕先生から書評!
渡辺貴裕先生から長文の書評をいただいた
東京学芸大学の渡辺貴裕先生が、私の新著『国語を楽しく』の全編にわたる書評を公開してくれました。
長文ですが、核心をついてくださっているので、全文を引用します。以下、引用です。
私が国語教育学分野で、イギリスのドラマ教育や日本の演劇教育実践を手がかりに演劇的手法に関するさまざまな研究や提案を行ってきた際、日本の国語教育においても同様の発想に基づく取り組みが存在するとして挙げていたのが、首藤 久義先生らによる「翻作法」だった。
例えば、全国大学国語教育学会の公開講座ブックレット7『国語科の授業づくりと評価を考える』(https://www.jtsj.org/kouza からDL可能)に所収の拙稿でも言及している(添付画像)。
そんな「翻作法」に関して、このたび新刊が出た(首藤先生、ご恵贈ありがとうございました!)。
首藤久義『国語を楽しく ―プロジェクト・翻作・同時異学習のすすめ』東洋館出版社、2023年
添え状に「これまで書いた『翻作法』とは、様変わりしております」と直筆で書かれていたが、たしかにたしかに、これまでの「翻作法」の発想を引き継ぎつつ、理論的な枠組みや位置付けが整理され、具体例も豊富でイメージしやすいものになっている。
氏は、従来の国語の授業で主流派だった「学級の全員が、同じ内容、同じ方法、同じ進度で進む」形式を「同時同学習」(p.10)と名付け、それとは異なる「同時異学習」(p.16)の必要性を説く。それを可能にするものとして位置付くのが「プロジェクト」であり「翻作」だ。
「プロジェクト」に関しては、「言葉が育つプロジェクト単元」として、「絵本を作る」「創作する」「未来新聞を作る」「見学の案内冊子を作る」「アンソロジーを作る」「読書案内をする」「大判名刺で遊ぶ」「『なりきり自伝』を作る」「愛読書語彙辞典を作る」などなど14の例が挙げられている(pp.44-60)。
「翻作」に関しては、本文の変更や創作を伴う「かえる翻作」と、本文を変えることなく表現する「なぞる翻作」との区別が分かりやすい(pp.94-95)。実際、私が取り組んできた演劇的手法に関しても、本文を(地の文をカットしたりの変更はあるものの)そのまま使ってナレーターや登場人物を割り振って、動きながら読んでその作品の世界を楽しんでいくという、「なぞる翻作」に該当するタイプのものもあれば、「ホットシーティング」やら「シーンづくり」やらの技法を使って、本文をもとに創作する「かえる翻作」に該当するタイプのものもある。この区別を導入することで、例えば、演劇的手法を取り入れる際に起こりがちな事態に関して、「先生たち、すぐ『かえる翻作』をやりたがるけれど、まずはしっかりと『なぞる翻作』を楽しんだらよいのに」のように、整理して捉えることができそうだ。
氏が「翻作の効用」において挙げている、「まずは読解、それから表現活動」から「表現活動を通した精読」「表現のために理解を深める」への転換(p.124)も、まさに、私が『なってみる学び』などで書いてきた「理解から表現への一方通行」から「表現と理解の相互循環」と重なるもの。やはり、演劇的手法の発想とおおいに共通するなあと再認識する。
本書のよさ(と私が言うのもおこがましいかもしれないが)を3つ。
1つめは、カバーする範囲の広さ、網羅性。
私など、演劇的手法だけでもいろいろ気になる点、言っておきたい点が出てきて、「木を見て森を見ず」に陥りそうになるのだが、首藤先生のこの著作では、「同時異学習」という観点から幅広い学習活動を取りあげ、整理し、位置づけている。これは、さまざまなタイプの活動が、ただ、「こんな面白い活動があるんだ」だけでなく、それらに共通する意義や働きが俯瞰的に捉えられることにもつながる。
2つめは、文章の小気味よさ。
「同時同学習」がもつ課題を挙げるところでの、早く終わった子を「お助けマン」として、まだ終えていない子への手助けをさせるやりかたに関しての、
「『お助けマン』どころか、とんだ『お邪魔マン』」(p.13)
然り。
同じく「同時同学習」が陥りがちな問題に関する、
「優劣や順位を競い合わせる授業は、努力しなくても上位になれる子にはおごりと怠惰と退屈をもたらす。努力しても競争に勝てそうにない子には絶望をもたらす」(p.25)
然り。
あるいは、評価の「観点」に関する、
「観点を10項目用意すれば、10項目以外のものが見えなくなり、20項目用意すれば、20項目しか見えなくなる。評価の観点を、たとえ、1万用意しても、その1万の観点からはずれる出来事がいとも簡単に出現するのが教育の現場である。では、どうすればよいか。評価の観点をもたずに、子どもをよく見ればよいのである」(p.30)
とか、教師による単元の考案に関する、
「単元を『思い付き』でやってはいけない、と言う人がいる。しかし、私はそうは思わない。……それは、教師の目に映った子どもの姿・子どもの思い・子どもの興味・子どものニーズなどと、教師の願いや思いが、絶妙にかけ合わさって生まれた『ひらめき』である」(p.77)
とか、教師の専門性への信頼と鼓舞が軽妙な筆致で綴られていくさまが爽快だ。
3つめは、幼児教育あるいは幼児期からの子どものことばの発達への目配り。
「幼児が看板や絵本の文字を自分流に読み上げたり、字を書くと称して小さな線を書き並べ、それを読み上げたりするとき、もう、幼い子たちなりの読み書きが始まっているのである」(p.146)
3歳の女の子が、「とびうお」の絵本を「読んであげる!」と持ってきて、実際にそのページに印刷されている文とは違うにもかかわらず、どのページも「トビウオサンノデキルコト!」と「読んで」くれたといった、絵本と共にある幼児のさまざまなエピソードが語られる。
そして、
「これらの誤り事例を見た大人の中には、これらを単なる誤りとして切り捨てる人もいるであろう。その逆に、誤りの中に含まれる正しさを見つけて喜ぶ人もいるであろう。そして、その違いは、正反対の効果を生むであろう」(p.147)
と、周囲の大人の役割に言及する。
こうした幼児のことばの学びの話が、本書の前半の学校教育の話にもつながっている。文字を書き始めた子が「行きました」を「い木ました」と書いたりする「創作的表記」への、教師の対応などだ。
このように幼児期からの長期的な発達の視点をもって国語の授業を考えるのは、私に欠けている部分。
附属幼稚園の園長を務められた氏ならではの強みが遺憾なく発揮されていると言えるだろう。圧巻だ。
細かく見ると、現在の国語の授業では「同時同学習」に限らず、「ライティングワークショップ」「リーディングワークショップ」のように「同時異学習」に該当するものも増えてきているんじゃないかななどと疑問に思う部分もある。
が、そうした部分を差し引いても、本書は十分に読み応えがある。
明日から書店にも並ぶらしい。ご興味のある方、是非!
以上が、渡辺先生が書いてくれた書評です。
書評の末尾では、「現在の国語の授業では「同時同学習」に限らず、「ライティングワークショップ」「リーディングワークショップ」のように「同時異学習」に該当するものも増えてきているんじゃないかなどと疑問に思う部分もある。」との疑問を提示してくれました。私も同感です。
学校現場には、そのようなすばらしい実践がこれまでもあったし、今もあります。私もその一端を担ってきました。私のこの本は、そういう実践へのエールでもあります。
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