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持続可能と非効率化

効率化を意識すると、なんとなくそれは持続可能ではなくなる気がしている。
持続可能ではなくなるのは、別にそれはそれでもいいのだが、なんだか寂しい。
なんとなくこれは真理だと思っているので、ここに書き残しておく。

効率化とは

効率化という言葉は、特段悪い言葉でもなんでもないし、むしろいい言葉の部類に入るだろう。
だが、今の僕はこの効率的に生きていくというのをほぼ辞めてしまっている気がする。
いつからそうしているのかは定かではないが、下手をするとむしろ中学生ぐらいからそうしていた可能性がある。
無駄なところに価値を見出すのがなんだか好きなタイプだった気がする。

何事も効率的にすることに意味があると教えられてきた気もするし、いろんな本にもそう書いてある。
でもきっと僕には合わなかったのかもしれない。
そういう話だ。

タイパ・コスパ

「無駄なことは勉強しない。」
「役に立つ知識だけ欲しい。」
「効率的に学びたい。」
というのはある種、当たり前の感情かもしれない。
あんまり得意な言葉ではないが、「タイパ」「コスパ」なんて言葉も今はあって、よりスピーディーにコンテンツすらも消費するスタイルが確立されている。
映画やドラマ、動画などの本来のスピードを 1.5 倍速などで観て、より短い時間で観ることが一般的になってきているのだろう。

家にいて amazon でポチッとするだけで何かが家に届く。
わざわざお店に行く必要すらない。
効率的ではないかもしれないが、お店に行くのも一つの手だと思っている。

たまには、毎月定期便で届けてくれるお水を、自分でどっかの高級スーパーに新しい発見を目指して買いに行ってみるのも楽しいかもしれない。

面白いかどうか

「役に立つ」とか「効率的か」とかより、「面白いかどうか」「ワクワクドキドキするかどうか」で学ぶ人は、最初の学習ペースとしてはスローかもしれないが、面白いと感じることに向き合っているので、継続できる
そして、成長曲線的に、あるタイミングから急激に伸びていく気がする。

役に立つことだけを学ぼうとすると、役に立たない可能性の勘繰りが生まれた瞬間からやる気が減退する
無意識の反応に忠実に学ぶのが、「面白いかどうか」、意識が生み出す誤った原理で学ぶのが、「役に立つかどうか」、だと考えている。

大体のことは、「役に立つかどうか」で学んだことは、役に立たない。
「面白いかどうか」で学んだことは、いざという時に役に立つ。
その学んだことを人に説明する時の躍動感が違う。
将来の何かしらの護身のために柔術を習うのと、面白そうだと思って柔術を始めるのではやっぱり何かが違う。

一応言っておくが、役に立つことを学ぶことがよくないという意味ではない。
それだけを学ぼうとする姿勢が良くないのではないかという話である。

継続のメリット

「面白いかどうか」で学んでいることは、継続できる。
そして、一旦継続のレールに乗れると、その学んでいることを辞めないので、ちょいちょい結果が出る。
つまり、結果が出るまでやる、さらにそれを継続するとも言える。
着実にドーパミンは出て、成功体験にもなっていく。

結果としては、成功もあるし失敗もある。
このどちらも経験することで、失敗をそもそも怖いと感じ難くもなる。
大きい失敗は怖いので、小さく失敗していくのも肌身に感じるようになる。
少し作ってリリース、そして小さく失敗するという、アジャイルの精神にまた原点回帰する。

失敗したから辞めるというのは、スーパーマリオで一番初めのクリボウに当たって死んだら、ゲームを辞めるのと同じだ。
ゲームをやってる時、マリオが死ぬことは失敗ではない。
次はそこを回避しようという学びである。
成功者の話によく出てくる話と同じで、彼らがなぜ成功しているかというと、ただ単純に成功するまでやっているからである。
なぜスーパーマリオを全クリできたか?というと、全クリするまでやったからだ。

石橋を叩きすぎる

効率化を意識すると、石橋を過剰に叩きやすくなる傾向がある。

大昔だが前に、subversion というバージョン管理ツールを使っているプロジェクトで、試験的に git を入れて素振りをしてみよう、慣れて行ってみようというアイデアを出した時に言われた言葉を思い出す。

  • 「git は確実に subversion よりもいいんですか?」

  • 「git を学ぶことで、将来の役に立ちますか?」

こんなようなことだ。
そんなものは分かるはずもない。
冒険のために素振りをして、ドッグフーディングしていく、その姿勢が大事なのだ。

自分に合うとか合わないとかは、やる前は分からないし、やってる最中も分からない時がある。
やり終わっても分からない時すらある。
ただ、「面白いからやる」という状態だと、そもそも無意識で求めてるので、なんとなく面白くなる

安いから買った物

よく言われる話だが、「安かったから買った」ものは、結局飽きてしまう
自分の無意識が欲しいと感じたものは、やっぱり長く愛着を持って使うことができる。
効率的に安いものを買うのではなく、非効率的でも持続可能になるものを長く愛するのが大事なんじゃないかと思う。

例えば、革の財布が欲しいとする。買おうと思っていたとする。

amazon で安いどこ製かわからない革の財布を買うのではなく、自分で時間を掛けて調べて、その作ってる人たちの instagram やらを見て、自分の無意識の反応に耳を傾け、欲しい!と感じたものを高くても手に入れてみる。
手に入れる過程も重要だ。
できれば、お店まで見に行って、一度買うのを辞めて帰ってくるのでも良い。高くて悩んでいる時間も楽しい。
欲しいけど高いと悩むのは問題ないと思っている。
そして、あっち行ったりこっち行ったり、コーヒーを喫茶店で飲んでみたり、そうして、また同じ店に行き、定員さんに話を聞いて、やっとの思いで買った革の財布は一生物になるだろう。
きっと来年も再来年も使っているだろう。

この悩んでいる時間を、タイパ的な考えで行くと非効率的なのかもしれない。

ぼーっとする

毎日情報のシャワーを浴びている。今も浴びている。
情報をインプットしてないと不安にすらなる。

でもたまにでいい、たまに、あんまりスマホをいじらずに一人旅でもして海に行って、波打ち際をぼーっと見てると、いろんなことが降りてくる。

「あ、もしかしてこういうことがやりたかったのかな?僕は。」
「あんな言われ方したのが、やっぱり僕は嫌だな。」
「あの人にこういうプレゼントを渡してみようかな。」

みたいな発想がふと降りてくる。
これがデフォルトモード・ネットワーク(DMN)というやつだ。

非効率的かもしれないが、自分の無意識からのメッセージに耳を傾けて、持続可能な何かを探してみるのも楽しいのかもしれないと思っています。

「人生は効率的に生きるほど暇じゃない。」

熱海一人旅での海岸にあったライターより


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