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自己紹介【ASDと診断された私】

皆様はじめまして。ゆうきと言います。
京都在住の30歳です。
現在は転職活動中です。転職先は就労移行支援事業所で面接を受けています。
30歳でASDと診断されました。そんな私のこれまでの職歴をお伝えし、何かのきっかけとなればと思います。
就労移行支援とは??はまた後程。

この記事では私とは何者なのか
今後どういう記事を書いていくのか
の2つを紹介させていただきます。


・新卒~適応障害→休職→退職~

私は新卒で義肢装具士という仕事をしていました。
なんじゃそれと思う方が多いですが、義肢装具士とは国家資格で義足や腰のコルセット・靴のインソール・脳卒中等のリハビリの装具を販売&製作する仕事です。
病院勤めではなく、会社に所属し提携先の病院へルートで回り、そこで医者からオーダーを頂き、医者・看護師・スタッフさんと連携し患者さんへ義肢装具を提供します。
中には身体障がい者手帳で補装具を作ったりもします。
4年半勤務し、大学病院・総合病院・クリニック・施設へと担当を持っておりました。
車移動がメインですが片道2時間かかるところまで営業に行ったり朝は早朝に出発し帰りは9時を過ぎることも多かったです。
振り返ってもなかなかハードだったなと(笑)
そこではたくさんの症例を経験し失敗も経験したりといろいろありましたが、私の仕事に対する考え方の基盤ができました。
小林一茶さんの

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」

これは私の大切にしている言葉です。
仕事を始めていきなり大きな仕事や希望する仕事には就けないと思います。一部天才の方はできるかもですが。
どんなに小さな仕事や雑用と思うような仕事も一つ一つ着実にやっていけば必ず大きなものになると思います。
実際にコツコツとやっていったことで、業界内の学会発表の経験や新人教育担当・大きな病院の営業担当に任せて頂くことができました。

しかし、順調だったものがいきなり崩れ去ることになりました。
詳細は伏せますが会社の方針に納得いかず不満を抱いていました。パワハラ気質の社長より攻撃のターゲットにされ、周りも近づかないような空気間で四面楚歌の状態でした。
そして当時の上司から厳しい言葉を発せられ何かが壊れる音がしました。
このままではいけない。
そう思った私は総務部に泣きながら仕事を休みたいと話をして1か月の給食へ入りました。
精神状態はボロボロで本当に「死」を意識するときもありました。
もう会社に復帰はできないなと休職が決まった日から悟り、転職活動を開始。
「人となるべく関わらない仕事」
「お昼にきっちり食べられる環境」
「定時で帰られる仕事」
転職の軸などなくとにかくこの場から逃げたい一心で転職先を見つけました。
総務との面談時に退職届を提出し退職することとなりました。

・転職~モヤモヤした日々→Webデザインに出会う~

転職先は工場です。
人との関わりが少なく、労働環境が整った(12時にご飯が食べられる・定時で帰ることができてワークライフバランスが整っている)会社で働けることに安堵しました。
しかし、自己分析をまともに行っておらず、マイナス査定の転職が後々自分に負荷となってくることにこのときは気づきませんでした。

ASDの特徴として

  • 社会的な相互作用の難しさ:

  • コミュニケーションの課題:

  • 反復行動や興味の狭さ:

  • 感覚処理の異常:

  • ルーチンの重要性

が挙げられます。
このときは自分がASDであるという自覚もなかったのですが、工場での環境下は私の特性上不利に働く環境でした。
※全ての工場がそうではないです。

当時、東京の開発会社から業務委託を請け負っており、その担当部署に配属となりましたが、開発会社からの要求は厳しくイレギュラーの連続でした。
同じ働くメンバーは柔軟に臨機応変に対応されコミュニケーションも密にされていました。

しかし私は

  • 雑談に入れない

  • 報連相が上手くいかない

  • 自他境界線が曖昧でしんどくなる

  • 変化の多い環境で対応に苦慮する

という状態でした。
自分だけ除け者にされている感じがあり苦しい日々を送っていました。
「ここでも長くは働けそうにないな」
しかし一瞬だけ(振り返ってみたら)光明が見えました。

それが、コロナで空前と広がった「フリーランスブーム」です。
コロナで会社の方も休業はありませんでしたが、当初予定していた販売数が激減し、部品調達も難しく打撃を受けました。

謳い文句の「スキルを身に着けて自由に働く」

私はこれが本当に叶うと信じきっていました。
中古のPCを購入しオンラインスクールを受講。
行動力とフットワークの軽さはあったのでスキル習得にのめり込みました。
直営業(実際に店舗や企業に営業して受注)が高単価がとれると営業スクールにも入りました。
その他、経営者団体に入会したりとフリーランスへ着実に歩み始め生き生きとした人生を感じていました。
しかし、安定収入があってこそチャレンジできるタイプであると地獄を見て実感することになるのです。

・フリーランス~厳しい現実を知る~

工場で働きながら、夜や土日はデザイン制作や経営者団体に参加する日々が続きました。
朝活したりと今となってはできない(笑)くらいやり続けていました。
収益に関しては正直赤でしたが充実した生活を送っていましたが、フリーランスになる出来事が起こりました。

「ゆうきさん、会議室まできてください」

なんだろう?と思いながら予感はしていました。
なぜなら当時勤めていた工場は副業禁止だったのです。
会社の就業規則は守らないといけないものですね・・・
やったとしても決してバレないように←

「君、会社の規則破っているよね?始末書書いてね。」
いろいろ言われましたが、こんな感じです。
なぜルールがあるのかこの件で思い知ることになりました。
知人に相談して悩みに悩んで会社を退職することに。

フリーランスは本当に自由なのか?

自由です!
働く場所と時間だけ(笑)
ここからが地獄の始まりでした。
フリーランスは確かに自由です。寝る時間・起きる時間と働く場所だって自宅でもいいですし、旅行先でもできますし(実際やりましたが、仕事無理です(笑))カフェでもどこでも。
しかし一番肝心なのは「仕事をとること」
会社と言うのは仕事をとってくる営業がいて、製品を作る製造がいて、ややこしい事務処理も事務の方がやってくれます。
なので、自分の仕事だけ集中しても給料はでます。
しかし、フリーランスはでません!全て自分でしないといけません!

仕事の取り方も
テレアポ
飛込み
コミュニティから仕事をもらう
業務委託で一部の仕事を頂く
等等たくさんあります。
その中で私が実施したのは「農耕型営業」つまり、コミュニティや団体に所属し関係構築を先図行い仕事を獲得する方法です。
人見知りのコミュニケーション難民はこの方法がハマりました。
0からの関係性から商談の機会を頂けました!(結果は受注ならず)
交流会へバンバン参加し1on1を実施しまくったりと商談までいく回数は獲得できましたが、肝心の収益はほとんどなく・・・
私の貯金も全て使い、妻の貯金も使い果たしてしまいました・・・
こんな人間にも今もついてきてくれる妻には感謝しかありません・・・・。

人間安全圏にいないと恐怖におびえる日々だと実感しました。
減っていくだけのお金。お金がないと心も貧しくなるのはまさにこのことで正常判断ができないくらい追い込まれました。
妻のことや今後のことを考え、今のうちに撤退すべきと腹をくくりました。
その中でも響いたのが、交流会で知り合った保険営業マンの言葉です。

「自由に対する責任取ってないから今の状況になっているんだろう」

この言葉だけではないですが、再び会社員へ戻ることになりました。
安易にフリーランスを目指す必要はないと思います。
会社員でも自分に合った環境が必ずあります。
1~2社だけで全て判断するのは早いかなと当時振り返っても感じます。
フリーランスに!という方は独立する段階で
収入が最低でも会社員と同じくらいある
仕事のパイプが既にある
状態がベターだと思います。

・再び会社員へ~就労移行で働く~

さて、当時29歳。会社員へ戻る未経験転職はラストの年齢なので気合が入ります。
そんな中で出会ったのが就労移行支援です。
義肢装具士の仕事が原点となり、再び対人支援職で働きたいという思いを持ったのと
妻も今は正社員でバリバリ仕事をしていますが、2年間ほど働けない状態が続き、一時期就労移行支援に見学に行ったこともあります。

「妻のように働きたくても働けない人が働ける社会を実現したい!」

そうして就労移行支援へ面接を受けることになりました。
が、しかしここで現実に直面。
アメリカならともかくここは日本です。
フリーランスという経歴に前向きに捉えてくれる企業もあれば
協調性がないと判断されかねない企業もあることを。
なので安易にフリーランスはおすすめしないという理由もあります。
実際軽く10社以上は応募し書類選考の地点で落選。
年齢もそうですし未経験、そしてフリーランスという経歴もマイナス査定になるという現実を突きつけられます。
そこでも諦めることなく受け続け大阪の就労移行支援事業所に就職することになりました。
そこでは本当にいろいろ経験させていただき感謝しかありません。

が、オーバーワークしすぎて体調を崩してしまい現在転職中です。
受診した心療内科で「ASD」の診断を受けました。

・終わりに

かなり長い文章でしたが読んでいただきありがとうございます。
振り返ってみるとASDならではの悩みはぶち当たる壁がありました。
それでも私はもっと早く気づいていればよかったとかフリーランスにならない方がよかったとは思っていません。
人生には必ず意味があると捉えていますし、その経験も無駄ではありません。
こうして記事を書いたのもグレーゾーンやもしかしたら自分は・・・という方もいるかもしれません。
そうした方に届けたいと思いブログを始めることになりました。
別にカウンセラーやコンサルをする気は全くなく私の発信で誰かの気づきや何かのきっかけとなっていただければ幸いです。
1社目の時に本当に「死」を意識しましたが、生きててよかったと本当に感じます。選択肢をたくさん知って自分なりの選択を持ち続けていれば人生絶対いいことが訪れると信じています。
質問や相談などお気軽に連絡ください。

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