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それは優しさなのか、それともただのエゴなのか

人に優しくするのって、基本的に自発的に出てくるものなのかもしれない。
それ自身はとてもよいことだと思うのだけど、受け取った相手が負担に感じてしまったら、たちまちそれは「親切」という形のただのエゴになってしまう。
善意というのは、ときどき厄介なのかもしれない。

それは、被災地での支援でも同じようなことが言える。

被災してしまった人たちに向けて、よかれと思って個人的に送った物資。
現地では人手不足で物資運搬がうまくいかずに送られてくる荷物が溜まってしまって、しばらく物資の受付をしないような話を何年か前の震災時のニュースで見た。
うろ覚えだったからどんな話だったか思い出したくてネットで検索してみたら、その話と似たような最近のニュースが出てきた。

"豪雨被害の倉敷市、個人の救援物資が「自衛隊の妨げ」に。いま、できる支援は?"
https://www.google.co.jp/amp/s/m.huffingtonpost.jp/amp/2018/07/09/kurashiki-saigai_a_23477435/

ひとつ行動したことで「よいことをした」とホッとする一方で、それは本当に相手のためになっているのかなんて。

別の視点から見たとき、その優しさは自分のエゴを満たしただけになっていたりしないだろうか。

さっきまで震災関係のことを話していたけど、本来書こうとしていたのは全然違うことだ。

私が本当はなにを言いたかったのかというと、最近困っている友達を助けたいなと思って色々と行動を起こしたのだけど、かなり具体的な話がまとまってきた段階で急に冷静になってしまって、客観的に考えるようになってしまったということ。
(友達は被災したわけではないので、違う困ったことが起きてる)

よかれと思ってやったことが、相手にとっては実は負担だったらどうしようか。ただ自分が突っ走っているだけじゃないのか。「優しさ」という名のエゴになっているんじゃないか、なんて。
とても面倒くさいことを考え始めた。

私は、とても面倒くさいのだ。
いきなり行動を起こしたと思えば、いきなり冷静になってそんなことを考える。

私が起こした優しさは、個人的に送った支援物資の「優しさ」と同じようなものだったんじゃないか。

そんなことを考えながら、できる限り相手の負担にならないようにできたらいいなと思っている。

これだけたくさん面倒くさいことを書いたけど、とてもとても素直な友達が「ありがとう!!」って言ってくれたのがうれしかったから、結果的には行動してよかったのかもしれない。

面倒くさい自分なりに、まっすぐに相手の言葉を受け取る努力をしよう。



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