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うまく休みなさい

0.


「幸せになるっていうのがどういうことなのか、その答えのひとつに、自分の人生を自分のものにしていく、っていうのがあると思う」友人がマジメにしみじみ語った。もうずっと若いころの話だ。


1.

「世間的な真っ当さ」という基準がある。「人並」という言葉もある。男らしさ・女らしさとか、いい大学を出て、大企業に就職し、結婚して子供をもうける、とか。既知のイメージにおさまるととりあえず安心できる。それじゃ満足できない場合もあるけど、乗っかっちゃえばとりあえずは心細くない。
 はたまた、「はやりにのる」という現象がある。SNSインフルエンサーの投稿にならって、おなじ店に行って同じものを頼んで同じ写真をとる。「それ」を身に付けている様子がいかにも幸福そうなので、ついつい真似してみたくなる。しあわせになれるかもしれないから。
 イメージを、夢を、みている。夢のおかげで鼓舞されたり、イメージで現実を裁いてつらくなったり。

 事物を自分に近づけ、自分をイメージに近づけようと努力する。
 引っ越し先の、まだ馴染みのない<知らない部屋>を<自分の家>にしていく。こういうようなことを僕らはいつも、いつまでも繰り返す。過去や記憶を手放しながら、新たに誰かと知り合って、最近のマイブームを持ったり、物や土地に愛着を抱いたり、全部「引っ越し」に似ている。自分と事物とをよりあわせて近づけていく、というテーマは、人生のなかで何度も何度も繰り返される。


2.

 今日も昼まで寝てしまった。なんていうふうに、休みの日に自分を嫌いになるなら、それは「なにかしなければならない」と思い込んでいるからだ。だらだら過ごすこと自体が悪いのではない。「なにかをすべきだ」という前提のせいで、だらだらが負い目になる。
 ほかにもたとえば、風邪をひいて休んでる日は、「寝ないといけない」と思って過ごすから、一日寝ていただけなのになんか気持ちが疲れる。仕事をしたみたいに。

 (自分自身がロボットアニメのロボットだとして)自分の操縦席に、イメージを座らせてしまうと、スケジュール帳的にはいかに「ひとり気ままな休日」であったとしても、いまいち休めない。ああしなきゃこうしなきゃ、するはずだったのに、できてる自分でいたかったのに。後悔してしんどくなる。
 おなじように過ごすにしても、主体的に過ごせていれば困らない。「なんにもしないぞ!」「まじで徹底的にだらだらする日をつくるぞ!」とハナから自分で決めていれば、昼に起きても嫌じゃない。健康的にだらだらできる。(その代わり、もしなにかしてしまった場合、「なんにもしないはずだったのに!」とふてくされる可能性はある。)

 犬や猫は一日の大半を寝て過ごしている。それを眺めていたら、生き物がなぜ生きているのかがわかった。寝るためだ。
 何度も何度も予行演習を行って、最終的に「永遠の眠り」に行きつく。起きている時間に動いて、代謝をし、はしゃいだり沈んだりするのは、ちゃんと疲れて、眠りやすくするためだ。よく眠るために生きている。

 この考え方に至って、私は昼までの眠りも多目に見られるようになりました。寝坊についても同様です。仕事先に迷惑はかかっちゃうけど、でも寝るために生きてるからな。仕事はあと、生きるのがさき。
 この肉体は、起きてる時間のためだけの存在ではない。なんなら眠ってる時間のほうが上等なものかもしれない。 ……そう思えば、起きている時間中になにかをなさねばならない、という使命感は弱体化する。なにかしなきゃ、という前提によって生じていた苦しみは減る。(こんなふうに言葉で簡単にいってしまえるのはずるい。ほんとうはこんなふうに簡単にはいかない)


3.

 もちろん、この考え方は逆転の発想でしかない。私にとってはあくまで、起きて活動している時間が中心です。生き物としての時間の中心は寝ている時間だったとしても、自分の時間は起きてる時間にある。
 このことを、少しかたい言い方で言い換えてみると、起きている時間とは、主語が機能している時間だ、といえる。一人称が固定されている時間が、自分の時間の中心だ、という話になる。

 寝ている時間と起きている時間を対置しているいま、冒頭の話題を思い返してみる。イメージとか、夢の話をしていました。
 さて、そういえば、寝ているときに見る<夢>と、理想の姿を示す<夢>と、どちらも同じ言葉を使う。ほかの言語に詳しくないけど、少なくとも英語もどちらもDreamでいえる。
 どちらの<夢>のなかでも、通常私が思っている「私」とは違う「私」が主語になっている。あるいは、主語がはっきりしない。主語の主体性が、なんかちょっとあやしい。一人称の確かさが、よくもわるくも冒険している。

 どちらの<夢>も、誰もが知っている。誰もが夢を見る。誰にだって、自分から静かに離れて、ちょっとその辺を漂っている時間がある。けど、自分から離れて漂えば不安にもなる。
 たいていは漂いっぱなしにはならない。自分に戻ってくる。戻ってくるたび「自分」が強化される。外に出るついでになにか「いらないもの」を捨てて、場合によっては、遊離中にみつけたなにかを握りしめて戻ってくる。いわば<夢>の都度、引っ越しをしている。自分という場所を強化していく。自分で自分を家化していく。



4.

 生き物は眠るために生きているんだ、と考えることで、楽になる面もあった。生きてる時間になにをしても、あるいはしなくても、それは生の本質ではないのだ。そういうふうに考え直すことで、自分の時間に課す期待や義務のイメージを減らせた。許せることが増えた。惰眠とかね。

 友人がしみじみ語る。「幸せになるっていうのがどういうことなのか、その答えのひとつに、自分の人生を自分のものにしていく、っていうのがあると思う」
 誰だって子供のうちは、家庭や近親者のなかでバランスをとりながらサヴァイブするほかない。味方につけないといけない人(その名も「保護者」)をたてて、彼らを正当化する。しかしいつか、保護者の城を出なければならない。自分のものではない人生を過ごしてきた人(=すべての子供)にとっては、そこんとこの奪還がまず大きな課題である。(成長にともなって、するすると城から出られる人もいるし、そうでない人もいる。城主が悪ければ悪いほど、呪いは深い。)

 さて、その友人が先日、その名も「うまく休めない」というタイトルの番組をつくっていた。(友人はテレビ番組をつくっている)
 休み方がわからない、休日のほうがかえって疲れてしまう、という悩みを抱えたことのある出演者たちが、いまの休日の過ごし方を紹介していた。彼彼女らはくちぐちに、自分で選んだ過ごし方をするようになったら、休日を楽しめるようになってきた、と語っていた。


 身分証明書類で証明される何者か、ではない、「わたし」それ自体とは、「わたし」それ自体とも言い切れない場所に漂い出ては戻ってくる、それを幾度も繰り返す、往還運動の軸であるらしい。まるでぐるぐる回る電子の運動によって、はじめて「ドーナツの穴」が定位されるみたいに、結果的にしか確認できない中空。その空洞から、外側に散らばってる理想的なイメージをキラキラ眺めてもよい。ショーウィンドウを眺めるように。ていうか嫌でもしちゃうものなんだろうけど、だがしかし、それに引っ張られるとうまく休めない。(文章の抽象度合いが急上昇しちゃった)

「ご自愛ください」っていうのは、だいたいが、ほかの人にむけて使う言葉だ。「自」なんて字を書くくせにね。こんな字でできている熟語なのだから、堂々とまっすぐ、自分自身にむけてみるのもいい。スケジュール帳をひらいて、今度の休日のところにためしに「自愛」と書いてみてもいい。ご自愛していこうぜ。

 ここまで読まれた方ならわかるように、論旨もうまく展がらなかったし、うまくオチませんでした。「~ぜ」なんて口調でアクセントつけるのはケツをまくっているだけ。まあ、こういうこともある。


「自分のため」に過ごすことを奨励している記事ではなく、「主体性の感覚」に鋭敏になる効果について述べており、また、休み「ではない」時間についても、「主体性を手放しても過ごせる時間」を指している。風邪で寝てる日が「仕事」の時間に感じられるのはこの点においてであり、ここでいう「仕事」は「労働」とは別のものである。

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