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「維持と探索」って? (1/3)

 個展のタイトルを「維持と探索」にしたことがあった。この時期、自分の日常のなかでめぐりあった重要なキーワードがまさに「維持と探索」だったから、それをそのままタイトルにしたんだった。「この時期」というのは、それまでやっていた気楽な仕事をやめて、数ヶ月の無職期間を経てから英語の塾で働きはじめ、ようやく慣れてきた時期、です。塾での勤労によって学んだことは少なくなかった。

 3年半後、知り合ったばかりのMくんと飲んで帰り道、作品制作の話をしているとき。塾での勤労経験および「維持と探索」というキーワードの発見という体験があったからこそ可能であったんだなあ〜っちゅう会話が生じた。
 Mくんは、デパートのショーウィンドウとか、テレビでいうところの「美術スタッフ」みたいな、商業的な界隈のなかでなにか装飾的なモノをつくる、という仕事をしている。かつ自分の作品制作もしている。

 Mくんは私にいいました。就職して結婚して子供つくって……といった"世間的にまっとうな人生"のレールを進むことへの反発心や、日常ってやつの退屈さを破壊したいとか、そんな気持ちが、自分が制作をしていることの根っこにはあると思ってきたけれど、最近ちょっと具合が違ってきた。だって、いまの自分って、ルーティン的に制作したものを収入に変え、絶えず収入を得るためにまたルーティン的な制作に戻るっちゅうサイクルのなかでものをつくっている。制作活動が、退屈な日常ってやつの範囲の中にすっぽり収まっている。
 そこで、制作活動への意欲を励ますために、「こうなりたい」「ああしたい」といった目標値を設定することはどうか、と、近頃そんなことを考えている。ルーティン的コツコツさ、地味さのループから抜け出すイメージを自分自身にチラつかせようってわけだ。けど、コンペ応募などの短期的かつ具体的なものではなく、もっと長期的で少し曖昧な「目標」つまり、作品をどのようによくしていきたいだとか、作家としてどうなりたいとかの展望・野望になると、うまくイメージできない。だからこそ、ほかの人が、そういったことについてどう考えているのか知りたい。

 ということで私は質問を受けました。あなたはある種の展望を描いて制作活動してるんですか、と。わたしはこう答えました。そういったものは持っていません、と。あったほうがいい気はするんだけど、むつかしい。気づくと、英語の塾で観察し、考えていた事柄たちが、ふと頭のなかによみがえっていました。

 しかしまだ少し、制作についての話を続ける。

 作品制作を続けていくなかで「作家として成長する」ということはありえると思う。これは、制作に際して抱く問いの精度があがっていく、ということだろうと思う。ただ、「作品がよくなっていく」については、よくわからない。そもそも「作品のよさ」って、作品として指さされる物体自体にべったりはっついているものでもないだろうし、どうであれ絶対的な採点はできない。とはいえ、右の作品と左の作品に明らかな質の差を実感する体験も身に覚えがあるから、「よくなる」がありえる可能性も否定しきれない。まあ少なくとも、作家として成長するということと、作品がよくなっていくことは、まったく別の話なんじゃないのか。

 中学生になってはじめて英語の授業をうける。まずアルファベットの読み書きを暗記するところからスタート、そして単語の読み書きをさせられ、基本的な短文を暗唱させられる。詰め込まれる事項は少しずつ増えていき、一文も長くなる。重文、複文から比較、仮定に関係詞節や副詞句。学ぶにつれ暗記を求められる単語も増える。穴埋め問題や選択問題を繰り返すうちに、長文が読めるようになってくると、今度はちょびちょび作文することもできるようになってくる。が、自然な会話はまだできない。学んできた知識を活用して、自分なりに主体的に使うという経験をさんざん繰り返し、次第に知識が体にこなれていくと、そこではじめて、ちょっとずつ話せるようになってくる。
 そしてついに英語を使ったコミュニケーションができるようになった人は、喋ってる最中に、学校で詰め込まれた文法事項をいちいち参照していない。中高程度の授業内容の丁寧な確認を逐一必要とするようでは、自分の言葉は喋れない。自転車の乗り方を意識しているようじゃスムーズに自転車を乗りこなせない。

 知識が体に沁み込んで、わざわざ意識する必要がないほど馴染んで、それではじめて、コミュニケーションに使えるようになる。まあしかし、それがゴールでもない。ちょっとした雑談を楽しむ人にも、わからないことや、うまく伝達しあえないことは絶対にある。レベルごとに壁はあり、いつまでもある。

 とはいえ、喋れるようになるためには、毎日英語の勉強をコツコツ続けるほかないらしい。毎日やって、英語にどんどん慣れていき、立ち止まらないと飲み込めないものの量を減らしていく。毎日同じドリルに取り組み続けるのはつまんないから、毎度異なる課題にトライする。その都度、知らないことにぶつかって、考えたり、ひとまず従ってみたり、そういった探索を繰り返すうちに、基礎の部分が固まっていく。ああ、それだけじゃなくて、自分からの発信も継続させましょう。アウトプットをすると消化が促されるので。「前より少しはできるようになったかな」という状態を重ねていけば、自分の前にたちはだかる壁のレベルが上がっていく。レベルごとの壁にしっかり喰らいついて、じっくりサーチすることで次の壁に辿り着く。これは、日々コツコツ地味に努力し続けることによりもたらされる。というか、コツコツの循環にいったんはいってしまえば、もう順番はわからなくなる。卵が先か鶏が先か、みたいな。

ところで、

・子供のまっすぐな訴えに心を打たれる
・シンプルだけれど、だからこそ胸を撃たれる詩がある
・あのときのあの人の、簡単なひとことが、いつまで忘れられない。

……そういう言葉ってあると思います。

 話を戻す。「作家としての成長」というのは、問いの精度があがっていくということだと思う、と、いいましたが、このことをこの文章では、英語の勉強を続け、いちいち参照しなくてもよい基礎事項が増えていくおかげで、向き合う課題のレベルが高くなっていく、ということと重ねています。
 一方で「作品のよさ」は、放たれた言葉の与える効果の話です。これは、その言語をどの程度学習できているか、ということとはイコールではない。決して文法的に正しくなくても、拙くても、ものすごいものが放たれる場合もある。なんなら、拙いからこそ!ってケースもあるだろうし、逆に、非常に高度な言葉遣いだったとしても、言葉の響きは退屈でしかないことだってあるだろう。それから、後から思い返すと評価が変わったりね。


(つづく)  → つづき

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