失われた教育
子供の頃に学校で傷ついた経験をして大人になり、この世の違和感に気づいた親たちは、自分たちで子供を守り育てなければならないことを自覚し、さまざまな地域にポツリポツリとフリースクールを立ち上げはじめました。しかし未だに完全なる形のスクールが確立されていないのが現状なのかもしれません。
もちろん完全な形は無く、いろいろな形があって良いのですが、今はまだ実験段階でその最先端の教育を立ち上げたスタッフと保護者も交わりながら作り上げていこうと模索している現状だと私は認識しています。
現在の公教育を確立した政府ですが、このシステムというよりも、現在、世界中で採用されているシステムは、西洋諸国のとある組織によって世界各国にもたらされ、植民地化され、その時に持ち込まれたルールが現在の常識とされるようになりました。
日本では終戦後、この国が占領下にある時にGHQにより設置された教育システムが今も変わらずに、その時代と同じ人を管理する教育がされています。
このシステムは良い面もあるかもしれませんが、基本構造はヒエラルキーになっており、上の命令に下が従うことに慣れさせるための教育システムになっています。
公教育を子供の頃から刷り込まれてきた私たち大人は、そのシステムの上に産み落とされたので、その実態に気付くことは難しいかもしれません。国も会社も学校も同じヒエラルキーの構造になっているので、それが常識だと大多数に認識されています。
そこに馴染めない人は変わり者だと言われ肩身の狭い思いを今までしてきました。
この日本にもともと住んでいた先住民族の暮らし方を縄文時代にまで遡って考えてみましょう。世界でも類を見ない長い間続いた縄文時代は一説によると、出土した人骨から武器で争った跡がほとんど見当たらないようです。おそらくお互いを尊重して、わりと平和な暮らしだったからこそ長い間続いたのだと考えられています。
そこへ違う種族がやってきて西洋の文化が混ざりだし、管理する側と管理される側の対立構造のシステムが、たまたま上手く導入されて組織が生み出され、教育機関、大学までもを作り出して従順な頭の良い人を輩出し、その人々があらゆる分野の会社を起業し、いわゆる成功者といわれる人々が立ち上げた会社が大きくなると同時に、株式を買収できる法整備をしておいて、育った会社を買収していきながら大きな組織はより大きくなるように設計されました。
その組織の中で上に指示され実行していくには、自分の考えと違う指示が来てもやらざるを得ないのでストレスが溜まります。そのストレスを発散するために消費という行動をすることによって、組織によって受けた矛盾を解放または忘却しようと自己防衛反応は無意識にはたらきます。その社会的ストレスを受けた人の消費行動を分析して商品を生み出し、販売することを経済成長やマーケティングなどと呼ばれますが、確かに学問と科学技術は進化して沢山の便利さを手に入れ、私たち庶民でも多大な恩恵を受けてきましたが、その一方で苦しんでそこから抜け出せない人が沢山いるのも事実で世界は少し歪な形をしています。
私たち大人はこのような状況を普段当たり前のように見聞きしてきたので、それは矛盾があっても仕方がないし、大多数が選択したのだから多少歪でもこの現状がいまは最善だと子供たちに教えることもあります。
また組織の中の上下関係では、上の判断に従わなければならないので、そこで生活の糧を得ている以上保身にならざるをえないのです。
根本的には私たちもヒエラルキーの概念を刷り込まれてしまっているので、その事に自然に気づくことは難しいことではあります。
政治でも組織内でも正義について人々は議論を重ねますが、大体の場合、結果は隠されながらも実は予算などにより決まっていて、その方向に動かざるをえない縦社会は、上下関係というルールを用いることによって半強制力をもっています。
多数決は民主主義ではありません。多くの意見をまとめようとすれば、少数派は多数派に合わせなければなりませんので、少数派を守る仕組みが必要になりますが、実際には機能していません。
組織にある問題の改善が難しいのは、あるイデオロギーにより既に完成されていて変わらないことを目的としているからではないでしょうか?
例えばA案がでて、それに対してB案がでます。本当の民主主義ならA案とB案で議論して双方の意見が合わないなら、ある程度両者が納得した今まで気づかなかった新しい方法Cに昇華させる事で問題解決になります。これを「止揚、アウフヘーベン」といいますが、実はC案をどうするかは予め決定されていて、組織の上下関係によって役職の保身と利益によって決定されることを免れない構造になっています。
協議したので決定事項が意に反せずとも、長い時間をかけ多数決で決まった結果なので納得せざるを得ませんが、何か釈然とせずに従わざるを得なかったことは誰にでも経験があると思います。
つまり、ほとんどの場合は、弱者が言える意見の窓口は一応ありますが、変わりませんと言わされているのが組織の窓口ということになります。
国民は国の窓口に言いあっても、ヒエラルキー最下位にあるフロントが上の命令が無ければ動けませんということは、国民が主体の民主主義ではないのではないでしょうか。
つまり今の既存のヒエラルキー型のシステムでは、全ての人が幸せになることができないシステムになっています。
上下の人間関係から、横の繋がりの暮らしを意識して、現代科学の恩恵を受けたハイブリッドな縄文時代を構築していけたら良いのではないでしょうか。
オルタナティブスクールは、公教育にまかせていられないから自分も参加しているという共通認識がとても重要で、お任せではない自覚を、保護者も認識する必要があると思います。
食べ物もそうですが、安全なものを食べたければ自分で作らざるを得ない現代になってしまいました。
既存の教育に馴染めないのなら
例えば20人生徒がいたら、その親御さんがいるので、1か月の中で1日1人の親が授業を受け持つがそれはできる範囲内でする。
それで20日の授業が埋まります。
自分が得意な事を隣にいる人に伝えるという授業をする。
全ての仕事はその道のプロフェッショナルです。
スタッフは見守り役で子供のやりたいことを出来る範囲で良いのでなるべくサポートをする。
決まりは一つ、自分が嫌だと思うことを人にはしないように大人と子供も気をつける。
親自身の教育方針がスクールの教育方針に合わない場合は、親が自分の理想の授業をすれば良い。
保護者が直接教育に関わることで理想を模索し、人との繋がりに調和を産み出すことができる。
誰にでも必ず長所があるものですが、もし自信が無ければ親も自分の長所を認識して、それを磨くことができる良い機会でもある。
他のスクールとも連携し、どこかのスクールで誰かが面白そうな授業をすることを知ったらそこで1日授業を受けることができるシステムがあっても面白いと思う。
そんな少人数で小さな学び場が日本中にあったら、それで回っていくのではないでしょうか?
文句があるなら自分でやる
工作がしたければしてみよう
作品をみんなで作ってみよう
料理をしてみたい
それには材料がひつようだから
種をまいてみよう育てて収穫しよう
それにはこんな道具があったらいいな
つくることはできるかな
やってみたら意外とできることばかりだったり
消費だけではみえないよ
作ろうとしてみて初めてそのものの意味を理解できる
そうやっていままで世界は作られてきた
不便な世の中だったんだけど
それすら忘れてしまった...
便利さにあぐらをかいて
思考さえも機械に委ねてしまった
自分で考えよう
直感を信じよう
好きなことをする事で大切な自分の使命を思い出すことができる
やりたい事が見つかった時のために色々なことを満遍なく勉強するのではなく
やりたい事がもし見つかったのなら
その目的を達成するために必要な勉強は楽しむことができる
ストレスなく好奇心でいつまでもする事ができるようになる
それはとても自然なこと
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