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【明清交代人物録】フランソワ・カロン(その六)

平戸でオランダ東インド会社で料理見習いの下働きから、商館長というトップにまで上り詰めたカロンですが、江戸幕府の鎖国政策によりこの建物を破壊して平戸オランダ商館を閉鎖、長崎に移るという選択を余儀なくされます。


平戸オランダ商館、次席そして商館長となる

カロンの調整でようやく、平戸オランダ商館での商売が再開されます。1632年、このタイミングでカロンは平戸オランダ商館の次席に任命されます。これまで通訳官、ノイツに付き従っての台湾オランダ商館の業務補助といった役割だったものが、タイオワン事件を解決し、日本での貿易業務を再開するところまで持っていった、この業績をバタヴィアのオランダ東インド会社でも評価したのでしょう。先に紹介した「大日本王国紀」を執筆したのも、この時期になります。

そして1639年、カロンは平戸オランダ商館の商館長となります。下積みの時代から実に20年という時間をかけ、とうとう商館長に上り詰めたわけです。

平戸オランダ商館を閉鎖

しかし、この時期江戸幕府は鎖国への歩みを進めている時期でした。ポルトガル人は、カトリックのキリスト教宣教活動に対する反感から、1639年に日本への渡航を禁止されます。この時代、カロンは次はオランダ人も同じ憂き目にあうかもしれないと警戒心を強めます。
1637年、島原の乱に際しオランダ商館は船を派遣して海からの反乱軍制圧に協力しています。しかし、このように江戸幕府への忠誠を直接的な軍事行動で表してもそれで安心でしたわけではありませんでした。
そして、このカロンの慎重な態度が日本でのオランダ商館の運命を救うことになります。

1640年に、大目付井上政重と長崎奉行柘植正時が平戸オランダ商館に現れ、この建物を破壊して長崎に移ることを命じます。この措置は、徳川家光から直接に命じられ、彼ら幕閣の高官にとっても唐突であったのだそうです。しかし、カロンはこの命令に従うことを即座に決断し、オランダ商館を破壊します。
オランダ人が江戸幕府のこの命令に従わなかった場合、オランダ人は皆殺しにされていたかもしれないと言われています。このタイミングで商館長になっていたのがカロンであったのは、この組織にとってはとても幸運なことだったと思います。1619年に平戸商館に赴任してから20年。この組織がとても危うい基礎の上に立っていることをカロンは十分に認識しており、幕府の権威が将軍にありこの命令が絶対であること、これに逆らうことがオランダにとっては致命的な失敗につながると理解していたのでしょう。もしこの時にオランダ商館のトップが彼でなかったら、ポルトガル人が豊臣秀吉の逆鱗に触れ国外退去を命じられたのと同じようなことになっていたのでしょう。

そして、江戸幕府はオランダの商館長に毎年交代することを命じます。そのため、カロンは長崎に移ったその年に日本を離れることになります。カロンはオランダ商館が平戸にあった40年のうち、後半の20年をこの地で活動しています。そして、最後の幕引きを自らの手で行い、長崎オランダ商館の時代に引き渡しました。この基礎のおかげで、オランダのこの組織は幕末まで続くことになり、明治維新にも影響していくことになります。そう考えると、江戸時代初期のこのカロンの働きは日本史に少なからず影響しているとも言えると思います。

タイオワンオランダ行政長官となる

カロンはバタヴィアに戻った後に、一旦オランダに戻ります。そして、あらためてバタヴィアに派遣され、セイロンを攻略する艦隊の司令官に任命されます。

その後、タイオワン行政長官として任命され、台日中貿易の最前線にあらためて立つことになります。
カロンがタイオワンに赴任した1644年は、北京の明王朝が崩壊して2年後になります。中国の南部では明朝の勢力が残存しており、南明王朝として名脈を保っていました。鄭芝龍は福州で隆武帝を擁立し、福王政権としてこれを補佐していました。

この様な時期の台湾での商館運営ですので、この時期の貿易は商品の調達がうまくいっていませんでした。タイオワンでの貿易は中国大陸からの生糸や陶器の調達に頼っていたからで、その調達先が混乱している状況では如何ともし難いわけです。
この頃のタイオワン商館では、収入源を在地での税金に求めるよう制度改革を進めており、貿易ではなく、そちらの収入の方が多くなっていたそうです。

また、カロンはもともと料理人であったという経歴から、台湾の鹿肉を食用として使うとか、砂糖の栽培を進めるなどの農業政策を推進したという評価もあります。

就任2年でタイオワン商館長の地位を離れる

しかし、この時のカロンは健康に優れなかった様です。病気がちで、原住民を呼んでの会合にも出席できませんでした。この時期の台湾では、熱病に冒され亡くなってしまうオランダ人は後を絶たず、カロンも危うく命を落としかけていたのかもしれません。
そして、1646年まで2年間この職を務めただけで台湾を離れてしまいます。日本にいた20年と比べるととても短い期間でした。

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