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【明清交代人物録】鄭芝龍(その七)

鄭芝龍が最終的に東シナ海の王者になることになると考えられる、料羅灣の戦いがあります。これはオランダ勢力を主体に劉香と李國助を加えた集団に対し鄭芝龍が戦いを挑み、勝利を収めるというものです。この戦いは鄭成功が台湾でオランダの勢力を追い落とすのに先立ち、中国の海軍勢力がオランダに対し勝利するというエポックメイキングな戦いと評価されています。
この戦いについて詳しく説明してみます。
なお、中国語では下記のWikipediaに詳細が説明されています。


李國助

李國助というのは、もともと鄭芝龍のボスであった李旦の息子です。オランダ人の資料にはAugustin、日本のCaptain Chinaとして現れます。
本来、李旦の事業はその息子である李國助がその後を継ぐはずであったのが、鄭芝龍に横取りされてしまっています。しかし、彼はその状況に飽きたらず鄭芝龍に対する復讐、彼の勢力の奪取を試みます。

彼の配下には日本の海賊が参加しています。この1630年という段階では日本では大阪の陣が終わり、鎖国に向かっている状況です。ということは国内では武力行使をする機会が減っており、海外で一旗揚げようという輩が多かったのでしょう。

なお、この李國助という人物に対しては日本の歴史学者、岩生成一氏の論文があります。

劉香

劉香はオランダ人の資料にはYang Lauとして現れてくる海賊です。彼ももともと鄭芝龍の部下だったものが独立したという経過を辿っています。出身は漳州。どうも福建の泉州と漳州というのは閩南系の二大グループなんですが、非常に仲が悪いですね。常に分裂し始める。この傾向は台湾に移っても続きます。台湾では械鬥という漳州と泉州、そして客家と閩南系の争いが絶えませんでした。

オランダの事情

オランダ側では、バタヴィアの東インド会社からの平和的交渉を諦め、軍事行動に出て強行的に中国の門戸を開けるように、対中国の自由貿易を中国中央に認めさせるようにという命令が来ます。これは19世紀にイギリスがアヘン戦争を発動したのと同じような成り行きのように思われます。台湾のオランダ商館長はプットマンスという人物ですが、彼も中国に対しては強行手段を取るべきだという態度でしたので、台湾の船団を率いて福建沿岸に対し軍事行動に訴えます。民家を焼き払い、家畜を奪い、中国の船も焼き払います。

明朝側の画策

これに加えて、鄭芝龍の勢力が大きくなることを福建の政府側でも恐れており、彼を海上から離すという挙に出ます。広東との省境に派遣して、陸上部隊として鐘凌秀という山賊退治に当たらせるのです。
これは、鄭芝龍に対する牽制で、陸に上げれば彼は失策をするのではないかという目論見であったと言われています。

しかし、鄭芝龍は陸上でも統率能力を示し、この山賊退治に成功してしまいます。そうは言っても、この期間にオランダ、劉香、李國助の勢力が合同することを許してしまうという、軍事的空白が福建の海に発生してしまいます。そして、オランダを主体にする連合軍の総攻撃が始まります。

戦いの勃発

1633年4月、オランダ東インド会社のバタヴィア本部はタイオワン商館に対し、攻撃を行うよう指示します。そのために6隻からなる船団も派遣し、その他中国沿岸の多くのの船も集結させます。目的は「中国福建沿岸にたいし、軍事的威嚇を行い中国政府当局に貿易の門戸を開けさせること」としています。

7月、オランダ軍は厦門の沿岸に対し攻撃を仕掛けます。これは急襲となり、中国側の軍艦を40〜50席ほども沈めてしまいます。これに対し、中国側はこの行為に対し抗議をしますが、オランダ側はこれに耳をかさず、沿岸地域に対し略奪行為を続けます。
次の段階として、鄭芝龍が交渉の表に立ち、この攻撃のために捕虜となった人間を解放すること、それからオランダ側の意図を明らかにするように求めます。しかし、オランダ側はこれを相変わらず無視し続け、その結果7月26日、中国側はオランダに対し宣戦布告をします。
この段階でオランダは李國助と劉香に協力を求めます。7月29日、オランダ側も中国に対し宣戦布告。この様にして、オランダと中国の間で全面的な戦争になってしまいます。

オランダ側は下記の様な要求を中国に示しています。
1. 漳州河、安海、タイオワン、バタヴィア間の自由な交易をする権利を持つ。
2. コロンス島に貿易に拠点を設ける。
3. オランダの代表を中国沿岸に派遣し交易業務を行わせる。
4. オランダの船団が中国沿岸を自由に停泊する。
5. 中国の船がマニラに行くことを禁止する。
6. オランダ人が中国において中国人と同様の権利を有する。
これらの要求は、オランダが1604年にマカオの攻撃をした時から継続して行っており、それを1624年にも軍事力に訴えて要求しています。そして1637年になり、あらためてオランダ東インド会社の総意として、現地出先機関のタイオワン商館に、戦争に訴えてでも中国の門戸を開けさせるように要求をしています。この意図はオランダにとっては譲れない線であり、30年以上にわたり中国に対して挑戦しているわけです。

8月に入り、まず中国政府が中国の民間に対しオランダ人に対して賞金だします。その後、鄭芝龍の軍船が厦門港に集結し始めます。オランダ側もこの海域に応援の船を送りますが、多勢に無勢となり、次第に状況が不利になっていきます。
8月12日、オランダ軍は2回目の中国に対する攻撃を行いますが、この段階で戦火は得られなくなっています。
8月18日、中国軍の反撃が始まります。40隻の船団でオランダ軍に対して火攻めを敢行しますが、オランダ勢はこの攻撃に早期に気が付き反撃を行います。結果、中国側の船団は潰走してしまいます。

料羅灣での死闘

9月に入り、オランダ軍は引き続き中国側を圧迫し続けますが、だんだんと効果が得られなくなり、中国側の反撃が激しくなっていきます。
9月16日、福建政府が全面的にオランダに対する反撃を指示します。
10月に入りオランダ軍は李國助と劉香がオランダ側に立ち参戦します。その後、小競り合いが続きますが、中国側の海上勢力が増え続けます。

10月22日、とうとう鄭芝龍の反撃が始まります。これは、140から150隻という大船団によるものと言われ、自ら火をつけた艦船をオランダ戦に横付けし、その炎でオランダ船もろとも火だるまになるという、まるで神風特攻の様なものだったそうです。また、複数の船でオランダ船を取り囲み、戦士を送り込んでは占拠してしまう、ほとんど捨て身の戦いを繰り広げています。
オランダ側は多勢に無勢で、成すこともなく敗勢に追い込まれ、最終的にはプットマンスを乗せた旗艦他、数隻で澎湖島に逃げ延びます。

この中国側による外国勢力に対する人海戦術という戦法は、よくよく考えるとこの時代から朝鮮戦争に至るまで延々と続けられています。圧倒的な数にものを言わせ、相手を蹂躙するという手法です。そのためには、自国の軍隊の損害をものともせず、捨て身での攻撃になります。誠に恐ろしいことです。

戦いの結果

ここで圧倒的な勝利をおさめた鄭芝龍ですが、オランダを叩いた後、すぐに和解の手を差し伸べます。オランダに対し、あらためて交渉のテーブルにつくことを告げ、交易の打診を図ります。
一方、劉香と李國助はその後も生き残り、鄭芝龍に敵対する行動をとり続けますが、今度はオランダが彼らを見限ってしまいます。そして、最終的に彼ら2人も鄭芝龍に捕らえられてしまいます。劉香は処刑され、李國助は解放されますがその後の行方は分かりません。

この様にして、大きな戦いを経て鄭芝龍の福建においての立場は盤石なものとなります。それまで彼に刃向かった勢力が、大なり小なりあり続けたわけですが、それらが束になってかかってきたものを全て退けてしまったわけです。事ここに至っては、明朝側も鄭芝龍の勢力に一目置かざるを得ません。

この様にして、東シナ海に一時の平和が訪れます。鄭芝龍の軍団は大手を奮って、この海域での交易活動に励むことができることになったわけです。
彼がオランダに対してすぐに譲歩の手を差し伸べたのは、目的がここにあったからに違いありません。この様な商業的な目的の場合、常に相手があるわけで、妥協点も見つけやすいわけです。相手がオランダであり、自らも交易を主とする集団であるところから、この様な判断になっていると思われます。
僕はこの様な成功体験が、後の満州族との交渉では裏目に出てしまったのではないかと考えています。それは、また後の回で詳しく述べます。




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