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【明清交代人物録】フレデリック・コイエット(その六)

コイエットの直前のタイオワン行政長官に、コーネリアス・カエサルが就任しています。フェルブルフからのバトンタッチを受け、コイエットに橋渡しをする役割です。この人物についての日本語の資料はほぼ皆無ですのでここで触れておきます。


たたき上げの台湾専門家

コーネリアス・カエサルは1629年、20歳の時に台湾に来ています。1633年に商務員に就任、そして実に6代の行政長官の元で業務を続けています。彼がタイオワン行政長官に就任するのは1653年のことですので、20年という時間を台湾で経験していることになります。これは12人いるオランダ東インド会社のタイオワン行政長官の中でも最も長いものです。彼は台湾に関しては最も経験を積んだ人物であると言えます。

1643年、長崎出島の商館長を務めたマクシミリアン・ル・メールがタイオワンに行政長官としてやってきます。この時にコーネリアス・カエサルはル・メールの補佐として上席商務員に任命され、台湾各地の行政事務に携わります。

ル・メールに次いでタイオワン行政長官に就任したのはフランソワ・カロンです。カロンは日本での経験で、日本に赴く商船にキリスト教関係の物品を積み込まないように指示をし、カエサルはこの仕事を担当しています。
また、この時代にタイオワン商館は"十分の一税"を治下の漢人農民に対し課することを決め、カエサルはこの業務のために土地の調査も実施しています。土地の測量を行い、より多くの税を納める人物に、税収徴収の権利を与えるということもしています。台湾における課税制度に関しては、その制定から実施まで、カエサルはすべての過程に関わっていると言えます。と言うことは、後に発生する郭懷一の乱にあたっても、漢人の動向については他のオランダ人の誰よりも詳しかったのではないでしょうか。

1646年、カロンの後を追い、 Pieter Anthoniszoon Overtwater がタイオワン行政長官に就任します。この際には前長官の業務を新しい長官に引き継ぐ業務を行っています。

第11代タイオワン商館長に就任

この様な経験を積み、タイオワンでは行政長官に次ぐ地位についていたカエサルでしたが、1649年から1651年まで一時オランダに帰国しています。そして短い間バタヴィアで判事を務めた後、1653年改めてタイオワン商館に派遣されいます。この時行政長官はフェルブルフ、郭懷一事件の起こった直後でした。
そして、この年フェルブルフの後を継ぎ、第11代のタイオワン行政長官に就任します。カエサルにとっては満を持しての行政長官の業務であり、バタヴィアからはタイオワン商館の業務を行う専門家としての期待も高かったでしょう。

カエサルの台湾で行った業務の大きなものに、プロヴァンシア城の建設があります。郭懷一事件を経て、タイオワン商館の本拠であるゼーランディア城だけではなく、赤崁の地も軍事的に強化すべきであろうという判断ですね。それまでは、単なる行政センターでしかなかった場所に、新たに城砦として整備しました。1653年に着工、2年をかけて1655年に完成しています。
後に鄭成功がタイオワン城を攻略するにあたり、真っ先にこのプロヴィンシア城を攻めています。その点からしても、この場所に軍事拠点を設けるというのは適切な判断であったのでしょう。

なお、現在この城の名称を中国語では赤崁樓と言っています。これはサッカムの城の意で、この地の平埔族の名前を使っています。プロヴィンシアは省の意味なので、固有名詞とするのはおかしいと台湾の歴史学者は主張しており、赤崁樓(サッカムの城)と命名しています。

通訳官何斌

カエサルの行政長官時代、オランダ東インド会社と、鄭家軍の間は小康状態を保っています。この時期、鄭家軍は南京の攻略に全力を傾けており、台湾に目を向けていません。
この少し前の時期に、何金定という人物がオランダ東インド会社サッカムでオランダと漢人の間の通訳を務めていました。漢人たちの棟梁として活躍していましたが1648年に亡くなってしまいます。何斌はその父親の跡を継いで、漢人のリーダーとなりました。税金を徴収する権利をオランダ人から受けて、この業務を行ってもいます。

1654年鄭成功からタイオワン商館に対して一通の手紙が送られます。漢人の商人たちがタイオワンで順調に商売に励むことができるのを感謝する内容でした。鄭成功の父親、鄭芝龍の時代からの友好的な関係に感謝する手紙です。
この手紙に合わせて、鄭成功はオランダにかつて安海に来たことのある医師Philips Heylemansを、再度厦門に派遣して欲しいという依頼をしています。これは鄭成功の祖母にあたる黃氏の治療を要請しているものでした。しかし、この医師はすでにバタヴィアに戻っており、代わりに Christian Beyer が派遣されています。この医師は厦門に3か月滞在し、タイオワンに戻っています。
何斌はこの件について鄭成功との連絡を担当します。このことがきっかけになり、何斌は鄭家軍との関係を深めていきます。

何斌は漢人グループの棟梁で、オランダ商館から徴税権を預かる立場にあり当初は裕福でしたが、彼らの商船が清朝の船に拿捕され、積み荷を全て没収されてしまうという事件が起こります。この打撃に何家は次第に困窮するようになり、オランダと漢人の間の交易に際し、二重に関税を徴収し私腹を肥やすという不正行為を働くようになります。

このことがカエサルの行政長官時代に起こっています。後に何斌は鄭成功のもとに走り、台湾の占領を提案することになります。

バタヴィアでの最期

カエサルは1656年、タイオワン行政長官の職をコイエット引き渡し、バタヴィアに戻りますが、その翌年に亡くなってしまいます。カエサルとコイエットとの関係は良好で、カエサルはバタヴィアから、タイオワンの政務に対していろいろと協力をしていましたが、そのような人物がバタヴィアですぐに亡くなってしまったのは、コイエットにとっては非常に不幸なことでした。仮にカエサルが積極的にタイオワンを手助けするようバタヴィアで働きかけていたら、タイオワン商館の孤立という状況は、様子が変わっていたかもしれません。

郭懷一事件の後を受け、プロヴィンシア城を構築、漢民族との対立関係を徐々に深めざるを得なくなった状況で、前任者から行政長官のバトンタッチを受けています。そして、彼の後を受けるコイエットも台湾通の人材です。
オランダ東インド会社のバタヴィア本部は、この時代タイオワン商館を貿易の基地ではなく、自らの土地で利益を生む植民地にしようと考えていたのでしょう。そのために、台湾の事情に詳しいこの2人が相次いでタイオワン行政長官に就任したのだと考えられます。
それは、鄭家軍と清朝の間の抗争が続いている状態では、中国大陸からの商品を調達する術がなく、交易がうまく成立せず、他の収入の道を探さざるを得なかったということなのでしょう。時代の状況に適応せざるを得ません。

カエサルは非常に若く、47歳で亡くなっています。そして、彼が商館長の間に、後に鄭成功の軍事行動につながる様々な種がまかれ、合わせてタイオワン商館側の準備も進んでいます。戦争前夜の状況が次第に煮詰まってきています。

コイエットは、カエサルの元でナンバー2として業務を行い、満を持してタイオワン行政長官となっています。彼は、この仕事は自ら引き受けるべきものと考えていたに違いないと、僕は今では思っています。カエサルの退場が若干早かったかもしれませんが、コイエットには使命感を育む充分な時間があったでしょう。
1655年、コイエットは第12代のタイオワン行政長官に就任しました。


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