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【流儀】誰が旅人の隣人か?

ある人が強盗に襲われ瀕死の状態で道端に捨て置かれた。祭司が通りかかったがそのまま行ってしまった。次にレビ人がやってきたが同じように立ち去った。次にやってきたサマリア人は、旅人に応急処置をしてロバ(または馬)に乗せて宿屋に連れて行き、介抱した。次の日、宿屋の主人に銀貨を渡し、世話を頼んだ。イエスは律法家に、この3人の中で誰が旅人の隣人かと尋ねると、律法家は、親切なサマリア人だと答えた。イエスは「行ってあなたも同じようにしなさい。そうすれば永遠の命をいただくことができる」と言った。

ルカ福音書 10章25~37節

この引用文は、聖書の中のルカ福音書に書かれた、イエスが隣人愛をたとえ話(善きサマリア人のたとえ)によって説くエピソードです。なぜ唐突にこのような話を持ち出したかというと、この“善きサマリア人(即ち、善き隣人)”こそが、私たちが目指す基本的な姿・コンセプトであるからです。今回は、私たちが地域にとってどんな存在でありたいかをお話ししたいと思います。

“善き隣人”として存在する理由

老人ホームや介護サービスの広告などで、「家族のように接する」とか「家族のように寄り添う」など、「家族のように…」と言ったフレーズをたまに耳にしませんか?私はこの「家族」という言葉を使うことに対して、昔から非常に疑問を抱いています。なぜなら、多くの介護現場の経験者はご存じだと思いますが、介護を必要とする当事者とその家族の間には、時として、埋められない溝があるからです。

それはたとえば、当事者から余計に甘えられたりすると本当は優しくしたいのに怒ってしまったり、想いがすれ違ってしまったことで強がって意固地になってしまうなど、関係性が強い家族だからこそ起こる介護の問題のことです。「仲の良い家族」はこれまでの国民の理想のかたちではあったと思いますが、家族だからと綺麗なことばかりではなく、家族だからこそ割り切れないことが現実にはあります。

もちろん「家族のような介護」を求める方々もいるとは思いますが、私の経験においては、介護では家族ではない第三者が介在していた方が上手くいくことが多く、当事者と家族の間に少しだけ距離を取った方が良いと思っています。私の考えを言うと、医療介護の専門職は家族には当事者に対して優しくいられる時間を少しでも多くつくってあげるべきで、その方が当事者も家族もずっと良い関係でいられます。

そのような考えから、私たちのコンセプトは“善き隣人”なのです。家族ではなく、手を差し伸べる親切な隣人なのです。ただでさえ、むずかしい家族愛を他人が成り代わって埋められるとは思えませんし、他人だからこそできることがあって、他人だからこそ作れる関係があるのです。ですから、「家族のような…」と聞くと、おそらく現場を知らない経営者やコンサルタントなどが考えたキャッチフレーズなのかなと想像してしまいます。

デジタル社会におけるウェルビーイングな暮らし

このように私たちは“善き隣人”として地域に存在し、住民の皆さんの健康を見守っていきたいと考えていますが、私たちは単に訪問看護サービスを提供するだけではありません。私たちは「100年生きたら、おもしろかった」と誰もが言えるように、健康的な暮らし方そのものを創っているのです。つまり、何か一つのサービスを提供する会社ではなく、人の暮らしを創ること、言うなればアーキテクトです。

つまるところ、病気にならず、笑顔が絶えず、仕事や趣味などを通じて社会参加ができていて、且つどの世代もデジタル社会を楽しんでいる世界にしたいと考えており、私たちの考える新しい暮らし方とは、「デジタル社会におけるウェルビーイングな暮らし」と定義しています。「大崎下島に住むだけで誰もが健康的且つ現代的に暮らせるんだよ」と言われるスモールワールドです。

ですから、訪問看護はこの中の機能の一つに過ぎず、予防や未病、健康の増進や維持、コミュニティの再構築にも取り組んでいるのです。本当の健康とは肉体や精神だけが良好な状態にあるのではなく、社会的にも満たされている必要があり、これらはデジタルによってさらに恩恵を享受できるのです。私はこれを住民と善き隣人あるいは住民同士のヘルスケア・コミュニケーションによって実現します。

健康に投資するという価値観

私は今後の日本に、この“善き隣人”がたくさん必要になると考えています。なぜなら、健康寿命をどう延ばすのかと考えたとき、医療だけではダメで、如何にして病気を予防するのか、要介護状態にさせないか、孤独を防ぐのかといった視点が必要不可欠なのです。

さらに、患者自身も自ら健康をつくれるように知識を身に付け、医療介護従事者がそれをサポートしていくことが重要だと考えます。もちろん、皆保険制度や様々な民間の保険があるが故に、日々の健康に投資をするという価値観が薄い日本人において、これをやろうとすると非常に高いハードルが待ち構えていることでしょう。

しかしながら超高齢社会の問題は、医療介護従事者や施設を増やしたり、新しいテクノロジーを導入してまるっと解決するような簡単な話ではありません。私たちは価値観の変容を促すような抜本的な改革に挑まなければならず、それは高齢化率70%を超える小さな島だからこそトライできることなのです。そして、この島で新しい暮らし方が実現できるのであれば他の地域でも実装できるはずです。

ですから、「100年生きたら、おもしろかった」と誰もが言える世界とは、何かの商品やサービスだけによって解決されるものではなく、顔の見えるコミュニティづくりやヘルスケアサービスを学べる、“善き隣人”を増やすための取り組みや地域住民の医療知識の向上を含めた大きな設計を行うことで実現するものなのです。

患者や要介護者ではなく、元気な人を増やす

私たちが理想とする世界がいつ実現できるかはわかりませんが、いつでも住民は健康的に暮らし、医療介護従事者(善き隣人)も活き活きと働ける世界が現実となったら、次にどんなことが起こると思いますか?

私は疲弊しきった田舎が息を吹き返すことになるだろうと推測します。なぜなら、いつまでも健康的に暮らせるのであれば、色んなことに挑戦して人生を楽しむ高齢者が増えるだろうし、その姿を見る下の世代は、将来を不安に感じることなく、さらに人生を豊にするために、人生をもっと楽しくするためにチャレンジしていくはずです。

そして、そのような場所に惹かれて多くの人々が集まります。人が元気だとさらに人を呼ぶのです。すでにその兆候は現れています。私たちはこれからも訪問看護サービスを行っていくので、当然、医療も介護も引き続きサービスを提供していきますが、それ以上にヘルスケアにも注力していきます。なぜなら、私たちは元気な人を増やしたいからです。

“善き隣人”が住民一人ひとりをケアすることで、地域そのものが元気になっていきます。即ち、“善き隣人”が地域をケアするということです。私たちは暮らし方も訪問看護の在り方も再定義しようとしています。そのためにも“善き隣人”をたくさん増やしたいのです。もし、この記事を読んで私の考えに共感してくれたのであれば、ぜひ私たちの活動に参加してください。“善き隣人”になれる医療介護従事者をいつでも待っています。

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