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〈詩評〉現代詩モダンホラーの法王 広瀬大志『毒猫』を読む

広瀬大志『毒猫』
ホラー神学の完成とこの先について

 
第2回西脇順三郎賞受賞作品『毒猫』の著者は広瀬大志、ライトバース出版から昨年の6月に出版された。広瀬大志の詩は、「詩のモダンホラー」と呼ばれる。野村喜和夫は、西脇順三郎賞を授与するにあたり
「『毒猫』でそのピークに達したという感がある」
と記した。
これは、モダンホラーを武器とする広瀬氏にとって死刑宣告に近い。実際『毒猫』から、ホラー色の強すぎると判断された作品は、『毒猫』本体からは外されていて、別冊『異形篇』に収められている。(このやり方こそホラーだと思う)萩原朔太郎が『青猫』という作品で、ホラーや探偵のジャンルを純文学に高めたと同じように、『毒猫』はまさに現代のホラーを文学史に刻むことに成功した。(広瀬さんが望む望まないに関わらず、文学は時としてこうした残酷な供犠を求める)
これから広瀬大志が日本現代詩において担わなければならないものは実に大きい。それは、本当に書きたいヤバい内容を、大人の理性とやらで制御していくということでもあるのだろう。オルタナティブな異才が王道に転換するというためには相応の犠牲を払わなくてはならない。(自由、あるいは死)

さて、広瀬氏が彼の特技である【ホラー】を闇に!葬った時に、そこに現れる言葉はどんなものなのだろう。残酷なことだが、それを想像するだけで楽しい(これは詩人の業なのか)

野村氏はこう続ける
「言語がどれほど先鋭化できるか、非予見化できるか、非意味化できるか、つまり要するに詩的言語化できるか、それが広瀬大志の詩作の基本的コンセプトなのである」

野村先生は、暴れん坊問題児である広瀬氏にこうしてタガをはめたのである。

「君のやっていることは、あくまでホラーを使った詩的言語の拡張という崇高な行為なのだ」とカチッと定義付けられたのだ。

広瀬氏は、これをどう受け止めるのだろうか。詩的言語化とは、言語から意味と調和を取り除く作業であり、ホラーはその道具でしかないと、言われてしまったのだから。
広瀬氏は詩を書く時、変性意識状態で書いていることを自ら認めている。神社や公園の散歩しながら、彼は自分の精神を変容させるヤバい場所を探す。要するに、彼にとって抑圧された狂気の吐口がそのまま詩作だったのだ。
「書いている瞬間は、そこにいる現実の自分ではまったく見えていないですね。で 書き終わった瞬間にできた作品に驚く。だから 多分イっていると思う」(詩人・広瀬大志のアレゴリーとしてEdge art documentary)
これからはもう.無制限にイってしまうのは許されない。皆が広瀬大志を、王道として手本にするのだから。晩年の萩原朔太郎のような品性が求められるのだ。この国でバロウズやブコウスキー、あるいはジャン・ジュネになるのは難しい。
これまで、広瀬氏が注目してきたのは「殺す」「墓」と言ったホラー系の言葉の持つ密度と強度だ。
しかもそれを覆せるのは「愛」だけ、とうそぶく。
(本人談)これは、そのまま古典的な一神教の物語につながる。彼が、ホラーを学んだのは主に欧米の文学や映画であることを考えればそれも納得できる。よって、恐怖も地獄も最終的には神の愛に到着する前提が無意識にあり、しかもアニミズム(神道、神仏習合)を信仰する日本人にそもそも贖罪の意識はない。だからこそ私たちは、恐怖を純粋にエンターテイメントとして楽しめる自由な場所にいるのだろう。(それが日本に優秀なゲームクリエーターやアニメーターが多い理由であると思う)恐怖は人類の最も古い感情であると言われる(ラブクラフト)恐怖を乗り越えるために人間は神の概念を生み出したのかもしれない。恐怖を純粋抽出し、言語空間を作りあげようとする動機は、神への純粋な愛や、純粋言語への渇望と何ら変わらない。そういう点で広瀬大志はパロディの天才であると同時に、稀代のロマンティックな詩人だと私は考えている。
 
さて、この詩集『毒猫』は
Ⅰ  白い兆し(P8~78、71ページ)
Ⅱ  毒猫(P82~118 37ページ)
Ⅲ  聖痕の日(P124~158 35ページ)の三章だてになっている。
それぞれの詩の数は27ページ→10ページ→8ページと「Ⅰ白い兆し」が圧倒的に多くバランスは悪い。しかも、タイトル名を冠した詩「白い兆し」には、白いことについて何も描かれていない。(これは「白い兆し」の虚構についての謎かけだと思う。あるいは白くなることへの抵抗なのかもしれない)

ⅡとⅢは、元々同じ章立てだったが「毒猫」を際立たせるために、二つに分けたのかもしれない。ではなぜわざわざ三章にしたのか?私は考えた。(以下は私の妄想である。)

〈最初の詩が「光色の羊歯」最後の詩が「聖痕の日」であることから、キリストの誕生から復活の物語であることは容易に想像できる。三章は、三位一体(聖霊、キリスト、神が一体であること)を表し、「白い兆し」は天使による受胎告知からキリストの成長を、「毒猫」はキリストの宣教活動を「聖痕の日」はキリストの復活を書いたのではないか。つまり『毒猫』は広瀬大志にとって現代詩におけるモダンホラー大系の新約聖書、と考えることができる。(旧約聖書はエドガー・アラン・ポーの『黒猫』あるいは萩原朔太郎の『青猫』か)そもそも、広瀬氏にとっての神々はラブクラフトであり、スティーブン・キングであり、ジョージ・A・ロメオである。よって、「復活」するのは、キリスト=ゾンビであり、ポーの黒猫であることは自然の成り行きだ。それは「はみ出た目玉」(ポーの黒猫は主人公に片目をえぐられる)「釘で打ち付けてあげるわ」(キリスト磔刑とその傷としての聖痕)などのフレーズで確認できる〉
   
   新しい子供たちは大人が寝息を立てたあとで
   蘇るものを迎えるだろう

      (P121「名状し難きものの毒猫」より) 
 
毒猫=黒猫=ゾンビ=キリストはこうして予言される。
 
   思いを巡らす可能性の王こそ恐怖であり
   すなわちそれは詩の根源である

      (P138 「キャッスルロック・
            フルスロットル」より)

 
ホラーが詩の根源であることの神学的宣言と解釈できる。ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」(Heart of Darkness)を思い出さずにはいられない。
 
   おまえのわたしどこにも行かない 
   わたしのお前は観察される砂だ

      (P158 「聖痕の日」)
 
これは広瀬大志の今後の活動についての宣言と読めるかもしれない。現代史におけるモダンホラーを完成させた広瀬大志は、詩人として残り続け、何を企むのか。次の作品の飛躍が本当に楽しみである。



化できるか、それが広瀬の詩作の基本的コンセプトなのである」

野村先生は、暴れん坊の生徒の広瀬にこうしてタガをはめたのである。

「君のやっていることは、あくまでホラーを使った詩的言語の拡張という崇高な行為なのだ」とかちっと定義付けられたのだ。

広瀬氏は、これをどう受け止めるのだろうか。詩的言語化とは、言語から意味と調和を取り除く作業であり、ホラーはその道具でしかないと、言われてしまったのだから。

広瀬氏は詩を書く時、変性意識状態で書いていることを自ら認めている。神社や公園の散歩しながら、彼は自分の精神を変える場所を探す。要するに、自分の狂気の吐口が、詩作だったのだ。

「書いている瞬間は、そこにいる現実の自分ではまったく見えていないですね。で 書き終わった瞬間にできた作品に驚く。だから 多分イっていると思う」(詩人・広瀬大志のアレゴリーとしてEdge art documentary)

これからはもう.無制限にイってしまつのは許されない。皆が広瀬大志を、王道として手本にするのだから。朔太郎ののうな品性が求められるのだ。この国でバロウズやブコウスキー、あるいはジャン・ジュネになるのは難しい。

これまで、広瀬氏が注目してきたのは「殺す」「墓」と言ったホラー系の言葉の持つ密度と強度だ。
しかもそれを覆せるのは「愛」だけ、とうそぶく。
(本人談)これは、そのまま古典的な一神教の物語につながる。彼が、ホラーを学んだのは主に欧米の文学や映画であることを考えればそれも納得できる。よって、恐怖も地獄も最終的には神の愛に到着する前提が無意識にあり、しかもアニミズムを自称する日本人に贖罪の意識はない。だからこそ恐怖を楽しめる自由な場所にいるのだろう。

恐怖は人類の最も古い感情であると言われる(ラブクラフト)恐怖を乗り越えるために人間は神の概念を生み出したのかもしれない。恐怖を純粋抽出し、言語空間を作りあげようとする動機は、神への純粋な愛や、純粋言語への渇望と何ら変わらない。そういう点で広瀬大志はパロディの天才であると同時に、稀代のロマンティックな詩人だと私は考えている。

さて、この詩集『毒猫』は
Ⅰ  白い兆し(P8〜78、71ページ)
Ⅱ  毒猫(P82〜118 37ページ)
Ⅲ  聖痕の日(P124〜158 35ページ)の三章だてになっている。
それぞれの詩の数は27ページ→10ページ→8ページと「Ⅰ白い兆し」が圧倒的に多くバランスは悪い。しかも、タイトルの名前を冠した詩「白い兆し」には、白いことについて何も描かれていない。(これは「白い兆し」の虚構についての謎かけだと思う。あるいは白くなることへの抵抗なのかもしれない)

ⅡとⅢは、元々同じ章立てだったが「毒猫」を際立たせるために、二つに分けたのかもしれない。ではなぜわざわざ三章にしたのか?私は考えた。(以下は私の妄想である。)

〈最初の詩が「光色の羊歯」最後の詩が「聖痕の日」であることから、キリストの誕生から復活の物語であることは容易に想像できる。三章は、三位一体(聖霊、キリスト、神が一体であること)を表し、「白い兆し」は天使による受胎告知からキリストの成長を、「毒猫」はキリストの宣教活動を「聖痕の日」はキリストの復活を書いたのではないか。つまり『毒猫』は広瀬大志にとって現代詩におけるモダンホラー大系の新約聖書、と考えることができる。(旧約聖書はエドガー・アラン・ポーの『黒猫』あるいは萩原朔太郎の『青猫』か)そもそも、広瀬氏にとっての神々はラブクラフトであり、スティーブン・キングであり、ジョージ・A・ロメオである。よって、「復活」するのは、キリスト=ゾンビであり、ポーの黒猫であることは自然の成り行きだ。それは「はみ出た目玉」(ポーの黒猫は主人公に片目をえぐられる)「釘で打ち付けてあげるわ」(キリスト磔刑とその傷としての聖痕)などのフレーズで確認できる〉

    新しい子供たちは大人が寝息を立てたあとで
    蘇るものを迎えるだろう

        (P121「名状し難きものの毒猫」より)

毒猫=黒猫=ゾンビ=キリストはこうして予言される。


   思いを巡らす可能性の王こそ恐怖であり
   すなわちそれは詩の根源である

         (P138 「キャッスルロック・
               フルスロットル」より)

ホラーが詩の根源であることの神学的宣言 ジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」(Heart of Darkness)を思い出さずにはいられない。

   おまえのわたしどこにも行かない 
   わたしのお前は観察される砂だ
         (P158 「聖痕の日」)

これは広瀬大志の今後の活動についての宣言と読めるかもしれない。現代史におけるモダンホラーを完成させた広瀬大志は、詩人として残り続け、何を企むのか。次の作品の飛躍が本当に楽しみである。以上




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