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実名と匿名

何かを主張する文章を書くには訓練が必要である。その訓練を経ていない人がいきなりSNSという表現の場を持ったことによって、ルールのない無法空間が現れてしまっている。それは訓練を受けていないのにいきなり拳銃を与えられてしまい、撃ち方もわからないのに撃ちまくってしまっている状態に近いかもしれない。そうした言論空間では当事者にとって、ときに予想もしていないことが起こって慌てることになる。

主張とは「説得」である。おそらくこの論には反対するだろう思われる人(或いは人たち)に対する説得行為だ。相手を説得するためには相手の言い分の構造を理解しなければならないし、場合によっては相手がそう考えるに至る背景までをも理解しなければならない。その構造や背景を踏まえて、論理的に、具体例を挙げて、或いは場合分けをしながら妥当性を丁寧に説明することになる。そうした訓練を経た者だけが主張していい。そうした訓練を経ず、ただ「誰もが主張する権利がある」という思い込みだけでなされる主張は「暴力」に近づきやすい。

主張する訓練は相手を理解することだけに止まらない。何某かを主張するためには、自分の主張にどのような反論があり得るかを予め想定していなければならない。強調しておくが、「予め」である。実際に主張する以前に、ということだ。そして、「~という反論があるかもしれないが、これは~」とか「~という例外があることは承知しているが、それについては~」とか、こうした反論・例外想定とともに主張するべきなのだ。主張とは相手を大声で叩き潰すことではない。それは単なる「暴力」である。

レトリックとして大げさに言ったり、敢えて過激な物言いをするということはもちろんある。しかしその場合でも訓練を受けている者なら、「敢えて言わせていただくと」とか「誤解を恐れずに言えば」とか「口汚く言わせていただければ」といった留保の句が事前に入っている。これも「事前に」だ。そうした言葉が入っていると、訓練を受けた者が読めば、「ああ、この人はこれが言い過ぎであることを理解していて、敢えて話をわかりやすくするためにこの言い方を選択しているのだな…」と理解するものなのだ。しかし、現在のSNSにはこうした挿入句の意味・意義さえ理解していない人間がはびこっている。

これが実名での主張ということになれば、おそらくはネット上で主張を始めてから1年か2年でこうしたルールを身につけることができるだろうと思う。自分の立場(職業・地位など)を公開して主張すれば、それに対して返ってくる反論は自分の立場故のバイアスを指摘しつつ、丁寧に反論してくるものが多くなるからだ。そうした訓練を受けている人たちは反論する場合、必ずそのような反論手法を採る。それがモデルとして機能する。表現とはそういうものなのだ。しかし、匿名ではこうはいかない。

昔から匿名の投書が新聞に載ったり匿名希望の葉書がラジオで読まれたりした。一見、匿名は昔から許されていたようにも思える。しかし、新聞に載る投書やラジオで読まれる葉書には、編集する担当者やラジオ番組のプロデューサーが厳としていたのであって、なんでもかんでもが匿名で公開されていたわけではないのだ。ちゃんと「これは内容的に価値がある」と判断する人の判断のうえにそれは成り立っていたのである。SNSで生で垂れ流される表現とはわけが違う。

僕はネット上でも実名での表現しか認めなくていいと考えている。確かにいろいろ問題がある。先ほどの投稿で述べた正当な内部告発者がそれをしづらくなるという問題もその一つだ。しかしそれは別の機関をつくればいい。匿名で愚痴を言うことでスッキリし、次の日から気分を変えて過ごせるということもあるだろう。メンタル的に弱い人が悩みをつぶやくことで、相談に乗ってくれる人を見つけられるということもある。しかしこれらも、匿名の少人数による、それを目的としたコミュニティがあれば良いのであって、全体に公開される必要はないのだ。

一つ問題になるのは子どもだ。責任をもって発信できる年齢を何歳と捉えるか。或いは何かトラブルが起こったときに責任を問えるのを何歳とすべきか。ここは議論が必要である。二十歳にする必要はないだろうが、18歳とするのか、16歳とするのか、13歳とするのか…。実名しか認めないというときに、おそらくこれが一番大きな問題になると思う。

まあ、実名しか認めないなんていう流れにはならないだろうから、どうでもいいんだけどね(笑)。でも、表現するということの怖さや意味を知らない人が多すぎるので書いてみた次第である。

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