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時を隔てて理解されることがある?

ジョンが撃たれた日をよく覚えている。世界中が震撼した日だ。

僕は中学二年生だった。僕はまだビートルズをよく知らなかったけれど、その死が世界を震撼させるほどの人物であることだけはよく伝わってきた。あのときにテレビが醸し出した雰囲気、ビートルズを知らず、ジョン・レノンを知らない中学二年生の少年にまでショックを受けなければならないのだと強制するあの空気を僕はいまでもよく覚えている。あの空気はその後日本人が亡くなったときにつくられた空気とは明らかに違った。昭和天皇が崩御したときとはもちろん違ったし、石原裕次郎や美空ひばりが亡くなったときとも趣を異にしていた。でも、あの空気を、僕はいまでもうまく表現できない。

高校生になって、ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダーのデュエットが大ヒットした。エボニー・アンド・アイボリーだ。僕はこの曲を目的にポールのアルバム「タッグ・オブ・ウォー」を買った。「綱引き」と題されたこのアルバムにおいて、A面の最後に収録されていたのが、ジョンへの追悼曲「ヒア・トゥデイ」である。「もしもきみがここにいたなら……」と繰り返しながら、ジョンを悼む曲だ。

きみが恋しい。でも、きみは僕の歌のなかにちゃんといる。そう繰り返すポールの心象が高校生の僕にはよく理解できなかった。もちろん、言葉の意味はわかるし、ポールがジョンの死を悼んでいることもよく伝わってきた。でも、僕にはジョンが自分の歌のなかにいまもちゃんといると感じる、その心象がうまく理解できなかったのである。

学生時代、柏葉恭延という親友がいた。脳性麻痺の後遺症をもつ妹をもち、いまで言う特別支援教育に想像を絶する情熱を傾ける男だった。卒業後も当然のように特別支援教育の道に進み、重度の肢体不自由児や自閉症児の教育に情熱を抱きながら教師を続けた。そればかりか北海道の障がい児に積極的な活動の場をつくろうとの目的で発足した「にわとりクラブ」の立ち上げに参加し、中心メンバーとして活躍していた。この団体は正式名称を「特定非営利活動法人障がい児の積極的な活動を支援する会」といい、毎年行われる夏フェスには数百人から千人を集めている。兎にも角にも、北海道の特別支援教育の世界をリードする、そんな男だった。そう。あの日までは……。

七月上旬。強く陽射しの照りつける暑い日だった。正午頃だったと聞く。自らが担任する子と二人でグラウンドを走っていた柏葉は突然胸を押さえて倒れたらしい。同僚の教師が発見したときにはおそらく倒れてから既に三十分程度は経っていたらしい。既に心肺停止していたとも聞く。僕が連絡を受けたのは既にドクターヘリで市立病院に運ばれた後だった。特に仲の良かった友人二人とともに駆けつけたが、人工的に心臓を動かしているだけだった。もう駄目なの……と奥さんの由美子は泣いた。由美子も僕らの同期、学生時代の僕らの仲間である。

後日、44歳の若さで永眠した彼の死をこれ以上細かく書こうとは思わない。親友の葬式で涙ながらに働いたことを詳しく描写することもしない。ただ僕が言いたいのは、僕が柏葉の死で、ポールが「ジョンは自分の歌のなかにいる」と言った意味を理解するようになったのだということだ。それも三十年の時を隔てて。

彼の死後、僕は特別支援教育についても積極的に発言するようになった。それまでは専門外だからと、僕に発言する資格はないからと、この世界に関する発言は自粛することにしていた。それを自らに解禁したのだ。勤務校の特別支援学級にもできるだけ関わることにした。環境の整備においても僕のできることは何でも協力することにした。そして、特別支援教育の世界にいるさまざまな方々とも深く交流するようになった。

僕はいま、自分が特別支援教育に関する発言をしているとき、自分が語っているはずなのに、ふと柏葉が語っているのではないかと感じることがある。それもかなり頻繁にある。その頻度は、僕が特別支援教育への理解を深めれば深めるほど高くなっている実感がある。そして僕は、これなのだ、ポールが言っていたことはこういうことだったのだ、そう感じたのだった。僕はいま、日常的に柏葉と心の「綱引き」を繰り返しているような気がしてならない。

今日は七月二日。今年もまた、あの日が近づいてくる。夏が来る度に想い出さざるを得ない出来事。たぶん自分が死ぬまで繰り返さざるを得ない想いである。

こんな僕の言葉に、柏葉はどう応えるだろうか。

もし、ヤツがここにいたなら……。

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