授業づくりと学級づくりの微妙な関係
一 アリバイづくりの授業
中学校の授業の多くは〈アリバイづくり〉である。指導事項は「授業で扱った」という事実が大切なのであって、生徒たちに理解させたかとか、覚えさせたかとか、身につけさせたかとか、要するに授業として機能したか否かは一般に蔑ろにされる。一度授業で扱いさえすれば、数ヶ月後のテストでそれを答えられるか否かは生徒たちの努力に委ねられる。もちろん、テスト前に復習プリントを配付して確認させたり、心ある教師であればテスト直前の放課後に学習会を開いて復習に取り組ませたりといったことは行われる。しかしこれらも、どうひいき目に見ても不十分である。
中学校の授業の多くは〈アリバイづくり〉である。しかしこれを中学校教師の責任のみに帰してしまうのは少々無理があるかもしれない。中学校の指導事項は小学校のそれと比べて圧倒的に量が多い。ためしに、どの教科でも構わないから小学校六年生の教科書と中学校一年生の教科書とを比較してみるといい。掲載されている情報量には圧倒的な差異がある。イメージ的には頁数は二倍、一頁当たりの字数も二倍、それらを小学校よりも少ない時数で扱わねばならない。教え漏らしをつくるわけにはいかない。そんなことをすれば、入試に影響しかねない。入試に出題された指導事項が扱われていなかったということになれば大問題である。生徒や保護者にとってはもちろん、その教師にとっても学校全体にとっても大きな問題となる。普通に仕事をしようとすれば、システムとして〈アリバイづくり〉に向かわざるを得ない。そういう構造がある。
中学校一年生を担任すると、高学年の二学期末から三学期の指導事項が定着していないことがある。生徒たちに話を聞くと、その範囲は教科書が終わらなくて「ぶっ飛ばし大作戦」だったんです、とのことである。要するに、このままでは教科書が終わらないから、学級担任が「ぶっ飛ばし大作戦」と称して、四ヶ月分を二ヶ月で進むというような授業を展開したわけだ。三学期になると、授業参観の日こそワンテーマでおもしろく工夫された授業が展開されたけれど、その他は担任も子どもも一緒になって「ぶっ飛ばし大作戦」に協力していたとも言う。「だって習わないままで卒業したら、次の年に困るでしょ」と生徒たちも笑っていた。確かに、と僕も苦笑いで答える。
僕は「ぶっ飛ばし大作戦」を展開した小学校の高学年担任を批判したいのではない。この語に倣って言えば、中学校の授業は一年中「ぶっ飛ばし大作戦」なのだ。僕は国語科の教師だが、どんなに長い教材、文章量の多い教材であっても、どんなに時数をかけても六時間が限度だ。多くは四、五時間で終えなければならない。そのペースで授業を進めなくては、教科書が終わらない。しかも教え漏らしは許されない。要するに、教科書が終わらないと焦った小学校教師の「ぶっ飛ばし大作戦」が明らかな〈アリバイづくり〉であるのと同じように、中学校の授業の多くが一年中〈アリバイづくり〉に堕しているのだということである。
二 授業不成立の回避
中学校では「授業はできてあたりまえ」と言われる。自分たちの仕事にとって大切なのは学級づくりや生徒指導であって、授業づくりや授業研究ではない。小学校教師が「学級づくりは授業づくり」「学級づくりは授業が勝負」と言って、学校を挙げて授業研究に取り組むのと対照的である。これを中学校教師が教科担任制で、教科の専門家の集まりだからと考えるのは当たらない。授業に対する「できてあたりまえ」という言葉は、授業づくりがしっかりできてあたりまえとか、授業をしっかり機能させてあたりまえという意味ではない。あくまで最低限のラインを下回るなという意味だ。最低限のラインとはなにか。それは、授業を一人で、教科担任一人だけで行え、という意味だ。要するに、他人に迷惑をかけるなという意味である。
中学校はなににおいても組織的な対応をすることを原則としている。生徒指導事案が起こればすぐに学年教師が複数対応であたる。事案が大きければ生徒指導部による複数対応であたる。学級経営も行事運営も、若い担任が経験が浅くて困っていればすぐに救いの手が差し伸べられる。そういう組織だ。しかし一つだけ、この組織的対応から漏れている領域がある。それが授業だ。ある教師が授業崩壊を起こし、授業不成立の気配が見られたとき、それは授業づくりの問題ではなく、生徒指導事案として認識される。従ってそういう授業不成立を起こした教師の授業には、学年体制で空き時間の教師が貼りつき、睨みを利かすことになる。その教師の力量が低いために空き時間をつぶされる側はたまらない。空き時間は校務に取り組む大切な時間である。放課後には部活があり、部員を下校させ、教師がやっと落ち着くのは夕方七時半頃である。空き時間が奪われれば、事務仕事は七時半から始まることになる。これではたまらない。
これが生徒指導で空き時間が奪われるのなら、だれも文句を言わない。あくまでそれは生徒たちをしっかりと育てられなかった組織の責任であり、その責任の一端は自分も担っていると感じられるからだ。しかし、授業は違う。多くの教師が五十分という授業時間を四十人の生徒を相手に一人で運営しているというのに、教員集団のなかに力量の低い、最低限の役割を持ちこたえられない人間が出たということは、組織に穴を空けた個人の問題とされる。生徒を育てられなかったみんなの責任とはならない。事実、同じ学級集団を相手に一人で難なく授業を展開している教師が何人もいるのである。授業不成立を起こした教師個人の力量が低いせいだという理屈は成り立たざるを得ない。意識しているか否かの違いはあるが、これが中学校の一般的な感覚だ。
三 忌避される授業研究
中学校というところは、授業づくりの在り方が比較的自由だ。もちろんある学年の生徒たちを複数の同一教科教師でもてば評定資料に何を使うかの摺り合わせくらいは行われるが、それを一斉授業だけで進めるのか、協同的な学習を仕組むのかといったレベルのことは、一人ひとりの教員が自由に選択できる。同一教科の教師同士であっても、他の教師の授業に口は出さない。ましてや、他教科の授業に口を出すことなどまったくと言って良いほどない。他の教師から口を出されるのは授業不成立が常態化し、他の教師の援助を必要とするような状況が生まれた場合のみである。
実は中学校現場に授業研究の機運が根付かないのもここに起因する。授業研究を重ね、授業づくりに精魂を傾け、どんなに良い授業をしたとしても、それが評価されない。淡々とつまらない説明をし、本音では生徒たちから嫌がられている教師がいたとしても、他の教師に迷惑をかけていないという点では同一の評価しか受けない。各教科の教科性に対しては口を出さないという暗黙の了解が、そのような慣習として根付いたものと思われる。各教師の授業の善し悪しを評価してくれるのは生徒たちだけだ。しかし、生徒たちに嫌がられるようなつまらない説明で日々の授業を展開している教師が、生徒たちのそのような思いにアンテナを張っているはずもない。従って、そうした生徒たちの思いは埋もれていき、心ある教師による授業づくりの努力も埋もれていく。授業研究をライフワークとしているようなタイプの教師は、かえって「研究屋」と揶揄され、忌み嫌われる傾向さえある。
このような実態であるから、小規模校に赴任した若手教師が、勤務校に同一教科の教師が自分しかいないという場合には悲劇だ。授業づくりの在り方を教わる機会がないばかりか、すべての学年の授業を自分一人で担当することになるから、教材研究も大規模校に勤める教師の三倍である。こうなると、俗に言う「流す授業」が日常になっていく。どんなにやる気のある意欲的な若者であったとしても、時間的にも能力的にも不可能なのだ。環境が「流す授業」を生成させると言っても過言ではない。
地方の中学校若手教師の一番の苦しみがここにある。小規模校は職員室の人間も少ないから、中学校特有の組織的な生徒指導、組織的な役割分担も機能しづらい。大規模校に比べて一つ一つの仕事に戸惑いが大きくなる。わからないことがあっても教えてもらえない、助けてもらえない、授業については口を出されない、地方の小規模校に新卒で赴任すると、そういう状態で数年を過ごすことになる。授業づくりの在り方が自由であることは、実は授業づくりに関しては人を育てないということでもあるのだ。
しかし、学級づくりや生徒指導は違う。組織的な対応を旨とし、若者たちにとっても先輩教師の動き方が見える。見て盗むこともできるし、教えてもらうこともできる。先輩の仕事の在り方に感心する機会も多いし、反面教師から学ぶ機会も多くもなる。学級づくりや生徒指導、特別活動に一緒に取り組むことによって、教師同士の人間関係も醸成されていく。次第に意識が授業づくりから学級づくりや生徒指導に向かうようになる。こうして授業づくりを蔑ろにし、大切なのは学級づくりだ、生徒指導だと考える中学校教師が拡大再生産されていく。
四 最低限のコミュニケーション能力
それでも、このような現状でありながら、中学校には授業不成立ということが極端に少ない。ここまでを読んだ小学校に勤める読者は、もしかしたら、中学校に授業不成立の教師がある程度いるようにイメージされたかもしれない。しかし、決してそうではない。二十一世紀に入ってからの二十年間で、僕が授業において他の教師の応援を必要とする教師を見たのはたった二人である。僕はこの二十年間のうち、十六年間は大規模校に勤めていたから、おそらくかかわった教師は二五○人をゆうに超えるはずだ。しかも決して落ち着いた学校にばかり勤めていたわけではない。なのに、そのうち二人である。一パーセントを切るのだ。小学校のそれと比べたら、明らかに少ないはずである。
僕はこの要因として、二つの理由があると考えている。
一つは、中学校教師が同僚の学級経営や同僚の生徒指導を毎日のように見ているということだ。特に他人の生徒指導を見ていることは殊の外大きい。生徒指導とは説教ではない。説得であり、説諭であり、共感であり、かけひきである。要するに、コミュニケーションのすべてがそこにあるのだ。これを中学校教師は常に複数体制で行う。力量の低い教師は力量の高い教師の説諭の在り方を常に見ている。力量の高い教師は、力量の低い教師が説諭しているのを観察していて、ここは生徒に通じていないなという場面では即座に割って入り、「いいか?○○先生はこういう意味で言ってるんだぞ」とフォローを入れる。そのフォローから力量の低い教師は、自分の言い方の不備に気づくことになる。こうしたやりとりで無意識的に学んだことが、授業においても最低限のコミュニケーションの成立を保障しているのではないか、そう感じるのだ。
もう一つは、同じ授業を別の学級で複数回行うということだ。小学校教師にはにわかに信じがたいかもしれないが、中学校教師には抽象的な事柄をわかりやすく具体例を上げながら説明することに長けている者が多い。専門家教科のみを授業しているわけだから、もちろん、ある程度は知識をもっているからということもあるだろう。しかし、多くは、同じ授業を三~五回程度(五教科の場合)繰り返し、最初に授業をした学級から最後に授業をする学級に至るまでの間に、少しずつ授業を修正しているのである。僕は現在、二年生五学級をもっているが、僕のようなベテランでも、一時間目の授業と五時間目の授業とでは、かなり細かい説明の仕方が修正されている(ただし、四回目、五回目と同じ授業をしていると、説明するのに飽きてくるため、最も良い授業になるのは三時間目あたりである場合が多い・笑)。
双方とも、小学校にはない現象である。多くの中学校教師は校内研究や公開研究会などの、所謂「授業研究」には関心を示さない。しかし、実は多くの教師が生徒とのコミュニケーションの在り方を日常的に学び、たった一人の日常的な授業研究を意識的に行っているのである。小学校教師からみれば中学校教師の授業は、学習活動を中心としたダイナミックな展開はなく、そのほとんどがひどく地味である。しかし、中学校教師はアベレージの高い〈確かな言葉〉を使うことが多いのだ。
全国のセミナーで模擬授業を参観して講評することが多い。その多くは小学校教師だ。僕は中学校の国語教師なので、講評する模擬授業も国語の授業であることが多いのだが、小学校教師の授業は活動を入れなければという意識が強すぎるためか、必要のないところに音読を入れたり、これまでの授業展開とはつながらないクイズ形式を入れたりといったことが多い。要するに、無意識のうちにネタ主義の授業展開になっていることが多いのだ。その結果、なにをやっているのかわからないということが多々見られる。それに比して、数少ない中学校教師の授業は、地味で堅実で、やりたいことをストレートに扱う。授業を安定的に成立させるのは、ネタや活動ではない。それらは、最低限のコミュニケーション能力を前提としたうえでないと機能しないのだ。
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