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消費者属性を高め、自分の文化を守るということのジレンマ

『FRaU』のSDGs 特集を読んでいて印象に残ったものが2つある。

それは、「事業拡大を目的にせず、世の中の模範、ロールモデルになるような事業をすること」と嬉しそうに話す人たちと、SDGsの「誰も置き去りにしない世界を目指す」というフレーズだ。

本当に素晴らしい、自分もそう在りたいと思うと同時に、本当にそんなことが可能なのだろうかという印象を持たざるを得なかった。


少しここで、こういったテーマに興味を持つようになった経緯を少しだけ話したい。

私は『居場所』というテーマで活動を行い、セミナーの開催や動画コンテンツの販売、無料でのメルマガやブログ、SNS発信を中心にした執筆活動をしていた。

ところがある時、どうしようもにないジレンマに陥った。

まず最初に『居場所』の定義を確認させていただくと、これは「自分が自分を生かし、本来の自分で、自分のために生きられる場所」ということになる。

これだと分かりにくいので、要素を3つに分ける。


ひとつは「本来の自分」であるということ。そのためには自分が何を好きと感じ、何を心地よいと感じるのかという自分の美学を徹底的に追及し、それを思想(まではいかなくても自身の主張)ができるぐらいにまで高める行為をいう。

ふたつめは「信念」に生きるということで、自分を突き動かすようになった原体験、そして原風景をベースに「だから私はこのために生きているんだ」という行動力の源泉、コアを持つということ。

そして最後は「強み(=天才性)」を活かすことで、自分にとってはいともたやすく簡単にできてしまうようなことを組み合わせて、誰にもマネできないオリジナルの自分で成果を出す(または貢献できる)ようになること。

こうしたものがすべて発揮される状態を『居場所』と呼んでいるのだが、これを啓発によってどうにか実現しようとするとおかしなことになることに気がついたのだ。


自分が心地よい状態、好きを追及できる状態にさせるよう啓発させるということは「そうじゃない人」を対象にサービスを提供することになる。

当たり前だけど、居心地の悪さや生きづらさを感じていて、自分の好きが何なのかも分からないぐらいアンテナがさびついた人。

自分の信念がわからないというのは、自分は何のためにこの命を使いたいかを考えてこなかった人、もしくは考えようともしない人、ということになる。

そして強み(=天才性)がわからないということは、ヒエラルキーの中で上のいうことをただ聞いてきただけであったり、向き不向きを考えずに、ただ社会からの無意識の圧力で学歴を目指したり資格を取ったりして、自分にしかできないことへ向き合ってこなかった人たち、ということになる。


冒頭に書いたSDGsの「誰も置き去りにしない世界」というのは、角度によってはきっと、上記のような居場所を持たない人たちにも居場所を届けよう、というように感じられる。

そして、そう想い、願い、活動してきた私はとてもジレンマを抱えている。

たとえばなんだけど、このツイートをみてどう思うだろうか。


本来の自分で生きようと啓発すると、本来の自分で生きていない人が生きている「フリ」をして、本当の意味で「本来の自分」で在ることから逃げようとする。

信念をもって生きましょうと啓発すると、信念をもっている「フリ」をして、本当の意味で信念に生きることを放棄する。

強み(天才性)を活かしましょうと啓発すると、強みを探すことにばかり夢中になり、結局は強みを活かすという目的を忘れ、いつもの自分で生きる。

……ということが起きていた。

一方ですでに『居場所』のある状態で生きている人は、そもそも「本来の自分」だとか「信念」だとか「強み」なんていう言葉をそもそも自覚することなく、だが確かにそれらをしっかりと備え、そして生きていた。

つまり、啓発ってムダなんじゃないかというジレンマだ。

啓発するということは「それらがない」人たちを集めるわけで、この構造はそれすなわち、そのまま、情報弱者の搾取/情弱ビジネスそのものとなってしまうことが強烈にわかってしまった。


たとえばだけれど、コーチやカウンセラーの民間資格保持者で、ちゃんと人の話を聞ける人というのをほとんど見たことがない。(必ずアドバイスをしてしまうか、傾聴スキルが日常で当たり前のように発揮されていない、ということが多々ある)。

一方で、そもそもそんなことも考えもしなかった、だけど人生を真剣に生きてきた起業家や経営者さんの方がよっぽど傾聴ができていたりする。

「売上が伸びます」「集客できます」と言えば当然、売上目的・集客目的の人が集まるし、「ブログで稼げます」と言えば稼ぐことが目的の人が集まるわけで、

その流れで考えると、

「居場所を持てます」と言えば、いま居場所が持てない人が集まるわけで。でもそんなことよりも、

「ここに居場所を築いて生きている人たちがいます」とロールモデルを示すほうがよっぽど世の中のためじゃないかと最近は考えるようになっている。

一人ひとりに夢を与えますってよりも、ここに「夢があるよ」ってディズニーがテーマパークを作ったり映画を作ったりして示していく方が、よっぽど世の中のためなんじゃないかって考えるようになった。

「感化を促す」という表現になるのかもしれない。

辞書によると
「考え方や行動に影響を与えて、自然にそれを変えさせること」とある。


じゃあここで、「感化を促すビジネス」ってどんなだろうって考えていた時に、これまたセレンディピティー的に偶然この2つのnote が流れてきた。

それは単に容れ物としての会社やお店、商品が続くということではなく、いかに文化と精神性が受け継がれていくか、ということでもあります。

大きくなって、価値がわかりやすくなるとみんなが欲しがるでしょう。そうすると、必然的に戦わざるを得ないわけですよね。そして戦うことは全員を疲弊させ、余裕を奪い、文化の育成を阻むことにつながります。

そのために必要なのが、規模は小さくてもそれぞれの基準で豊かに暮らしている組織の集合体であり続けることなのだと思います。

日本は海外に比べてもものすごい数の雑誌があり、オタク的に突き詰めてニッチなジャンルを確立するという性質が昔からあります。そうした消費性向を鑑みても、スモールビジネス大国として世界のライフスタイルを牽引する存在になる方が、現実的な路線なのではないでしょうか。


ああ、なんて救われる文章なんだろう。

いま私はこの最所あさみさんの文章によって救われたというか、これこそ「感化された」のだと思う。彼女は決して啓発を目的にしていない。

「啓発」は、消費者属性を下げることにつながり、「感化」は、消費者属性を上げることにつながるのかもしれない。

ということは、誰かを倒して誰かを救おうという価値観はどう考えてもこれからの世の中にはまったく適合しない。

一方で、私はこう生きているんだというメッセージ性のあるロールモデルであり文化や精神性が引き継がれていくものが、いわゆる中央集権的にヒエラルキーを作り事業を拡大させていくようなものと相反する、分散型の小さな、だけど文化の育ったスモールビジネス大国日本になるんじゃないかと。

……………

ああ、やっとだ。

この、超強烈だった違和感から抜け出せそうな兆しが見えてきた。

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