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未来の消費文化をブームにさせないストーリーの在り方

少し前にニュースから流れてきた「キャンプ」に関する話題がある。

どうもコロナ禍における3密を避けるためのレジャーとしてアウトドアを選択する人たちが多いようで、そのなかでもとりわけ「キャンプ」が人気という話だった。

そこで警鐘が鳴らされていたのは「未経験者のマナー」に対して。

芝生が焼かれてしまった、キャンプ場ではない民家の庭で勝手にキャンプをする人がいる…。悩みを抱えたキャンプ場の管理人たちは、売上が伸びるのが嬉しい反面、マナーを守れない人たちに対し頭を抱えているようだった。

私がここで改めて感じたことは、ブームによって届いてはいけないところまでものごとがリーチしてしまうことの危険性について。

経営者の間ではよく「ブームにしてはいけない」と語られることが多いけれど、特にそれは未来の消費文化に関してはより意識を高める必要があるような気がしている。

ということで、今日は「未来の消費文化とストーリーの在り方」について、考察をまとめていきたいと思う。


意味的価値の消費はブームなのか?

正直いって私は、ブームに弱いほうだったりします。意識してるわけではなく、気づくと踊らされていることがけっこうあります。

最近ではSDGsやエシカルという表現が気になっているし、少し前までは個の時代における働き方、についても興味を強くもっていました。タピオカ…にはハマらなかったけれども。笑

どちらかというと「モノ」に関するブームではなく、「思想」に関する影響を強く受けてしまうのだと思います。体験価値に付随するような「コト」もそんなに消費しないほうです。

インスタ映えスポットに行くことに興味はなかったし、面白い体験型イベントがあるよと教えられても移動が億劫だったりして、ブームに乗っかれるだけの熱量を発揮できなかったわけです。

でも、「思想」のブームにはめっきり弱い。プロパガンダ(政治的意図をもつ宣伝)には、私自身、かなり気をつけなくてはいけない人種です。

ゆえに、人の意図を警戒する能力も合わせて身につき、ブームに乗っかる前に考察する習慣が身につきました。

今日の考察もその一環です。

意味的価値って、企業側が設計して人の消費をコントロールさせるものであってはいけないと思うんだよね

とある人のそのひとことが、今日のnote を書くキッカケとなりました。

特に最近は「伝統産業、日本文化、モノづくり」という文脈でのオウンドメディアをリリースしようと動いているためなおさらです。

さまざまなクラウドファンディングのページを読み込めば読み込むほど、これってもしかして、職人さんや伝統のストーリーを消費して、上層の人たちが上澄みをすくい取って儲けているだけの図が描けそうだぞ…?

と感じるシーンが、1つや2つではなかったのです。

「ストーリー消費」や「ストーリーテリング」には気をつけないといけない側面があります。なんの変哲もない木箱であっても、誰かの物語が付与されるだけで高額な値段がつけられることだって起こり得るわけです。

そこまで悪質でなかったとしても、誰かのストーリーを消費することで別の誰かが儲かる図というのはあちらこちらで散見されます。

機能的には一般的な家具があったとして、そこに「創業●●年の~」「伝統の技術を残すために~」と追記するだけで付加価値は高まります。でもそれは職人さんたちのこれまでの功績であり、商品の企画やアイデアを一瞬だけ考えたあなたのものではないぞ…? という現象です。

これがあまりにインパクトがあるため、まるでブームのように意味的価値が消費されていっているのではないか、という考察につながるわけです。

倫理的なエシカル消費、SDGsの取り組み、、という社会課題偏重型の消費はこのまま企業主導のかたちで進んでよいものなのか?

さらに考察を進めます。

硬派なプロダクト偏重主義はどこへ行く?

この真逆には、マーケットインに偏った “硬派な” プロダクトの存在があると思っています。

市場が必要とされているから「モノ」が作られるわけで、あえてその背景にある物語を伝える必要はないんじゃないか…という考え方です。硬派な印象があり、結果こそがすべて。努力のすべてを見せるなんてダサいぜ…!って感じ。

(そもそも「モノ」は、小さな経済圏のなかで必要とされるところから生まれ、それが徐々に拡大してきたはずです)

そこまでいかないにしても、あえてストーリーを語らないブランドというのも調べてみるとけっこうあります。

最近教えてもらったのは、「エシカルの看板をあえて下ろしたジュエリーブランド」として記事が存在するジュエリーブランドHASUNAさん。

会社を経営して8年が経つが、「エシカルは当たり前で、心の中に自然にあるもの」と話す。さらに、「(エシカルという)言葉を使えば使うほど、その意味合いが薄れていく気がする」と明かした。「マーケティング用語として、言葉だけが一人歩きしている。エシカルという言葉だけが独り歩きする可能性もある。大切なのは、言葉ではなく、エシカルを当たり前に捉えること」とブーム性のエシカルに警鐘を鳴らした。

こうして一部の言葉だけを引用することの危険性はいろいろあります。でもあえてもうひとつ、株式会社マザーハウスの山口絵理子さんの書いた『Third Way 第3の道のつくり方』からも表現を一部引用したいと思います。

私たちマザーハウスは、「コンセプトがいい」とよく言ってもらえる。しかし、それで商売が成り立つほどビジネスは甘くない。背景のよさでモノを買えるには、金額の限界がある。私たちの商品の単価は2万円から高いものは8万円程度。それをコンセプトだけで推し進める限界は起業1年目ですぐに痛感した。最終的にお金と引き換えにお客様が求められるものは、自分にとってメリットがあるものだ。当然だ。(p68)

バングラデシュでバッグやジュエリーを生産し、日本で販売する仕組みは、現地工場をつくることや職人さんを守ることへのこだわりも反映され、社会的な事業としても注目されています。

(社長本人は社会起業家であることを否定しているきらいがありますが)

上記は書籍からの引用になりましたが、記事としては東洋経済ONLINEさんに掲載されているこちらの記事が社長の山口絵理子氏のことをうまく表現されている気がして好きなのでご紹介しますね。

起業家の意義は、見過ごされているものの価値を見出していくこと

これらから私が勝手に受け取ったメッセージは、ストーリーがあり、倫理的で、社会性を伴うものだからこそ、プロダクトそのもので勝負することが筋なんじゃないか? というものです。

ぜひこちらの記事も合わせてどうぞ!

また、ストーリーを語らないわけではないのですが、プロダクトを追求し、企画販売に責任を持つ取り組みとして、株式会社和えるさんが挙げられると思っています。

下記、私が2017年頃から注目していて、いまも目が離せないとても芯のある経営者、矢島里佳さんの記事から引用です。

「デザイナー、クリエイターを呼んできて、モノを作りました。けれども、デザインしてそこで仕事が終わるとなると、誰も出口の責任を持てないため、職人さんのもとに在庫が残る。」というような。そのような失敗事例を数多く見聞きしてきてたことが、今の和えるのビジネスモデルに繋がっています。

“0から6歳の伝統ブランドaeru”では、私たち和えるが主体者となり、責任を持って商品の企画、開発販売までを行います。職人さんに和えるのオリジナル商品をお作り頂き、全て買い取りさせて頂き、自らの責任で出口も作り皆様にお届けする。三方よしの循環が生まれるビジネスモデルを大切にしています。

引用:「若き首長と起業家が語り合う 「未来への三方よし」

ほかにも、社会課題をデザイン解決する「シーラカンス食堂」の小林新也さんは、伝統産業の後継者育成のために、職人を育成する工房をつくったというお話があり、非常に硬派です。

現在、小林は刃物産業の後継者育成と、オリジナルブランド「MUJUN」の商品開発および海外展開に特に注力している。大量消費・大量生産・低価格が原因で工芸の付加価値が浸透しないという流通構造の課題と、後継者問題の両方に取組むためだ。

矛盾を理解しつつ、それを乗り越えて未来に価値を残していく──。そのためには、モノづくりの始めから終わりまですべてに携わり、産業のバックボーンにある文化を伝える必要がある。

「デザイン会社」という従来の枠を超えて活動するシーラカンス食堂。彼らの革新性は、個別の商品やブランドのデザインではなく、日本の職人産業そのものの弱体化した構造をリデザインし、海外市場という新たな文脈での強みに変換しているところにある。

引用:「矛盾の発見」から始まる伝統産業のリデザイン──「シーラカンス食堂」が目指す新しい“産業革命”

ここまで4社の事例とともに、私が感じていることを勝手に書かせていただいていますが、ストーリーやプロダクトの背景を語ることでマーケティングをしない姿勢や、物語を伝えるのであれば自分たちが企画・製造・販売までに一貫して責任を持つことで職人さんにリスクを負わせない姿勢は、どこか共通のものを感じています。

これからの社会に大きなインパクトを与えるのは、こういった硬派なプロダクトを生み出す企業なんだと思う。

──ここまでが、ひとつの結論、、かもしれない。

だけどあえて、もうさらに一歩だけ、考察を深めたい。前進かもしれないし、後退かもしれないのだけれど。

消費における顧客側のメリットは何か?

消費することのメリットは何か? ……なんて変な質問だと思います。メリットがあるから買うのであって、そこに「問い」は必要なのか、と。

例えばですが私は、aeru ブランドの「こぼしにくい器」や「こぼしにくいコップ」というものを子どもたちのために購入し、それを暮らしのなかで実際に日々使っています。

「なんでそれを買ったの?」

と聞かれたのであれば、「そこにストーリーがあったから」というのが正直な私という人間の消費者心理なんです。

もちろんストーリーだけで商品を購入したわけではなく、実用的な機能と、使うときに心地のよいデザインがあるからこそ高額であっても買ってみようと意思決定できたわけです。

ただ。

「認知~興味・関心」という、購買初期のフェーズで私を動機付けたのは、ストーリーだったことはまちがいありません。

『和える-aeru- (伝統産業を子どもにつなぐ25歳女性起業家)』という本をたまたま書店で見かけ、立ち読みしたらそのときの自分に響くことばがたくさん載っていって、家でじっくり読むことにしました。

読んだら共感やら感動やらで一気にファンとなり、一度は店舗を訪れてみようと思い、そして目黒と京都五条それぞれのお店を伺い、商品も購入したというわけです。

インタビュー記事がメディア上にあがれば読みに行き、そのなかから自分にいまできることで取り入れることは何かを考え続けてきました。

なので、熱心なユーザーというよりは研究の視点が強いかもしれませんし、その思想を広げるアンバサダー的な位置づけのほうへ偏っていると客観的に思うこともあります。

でも私にとっては、それこそが心地の良い ”消費のスタイル” なんです。

消費スタイルからカルチャー、そして文化へ

暮らしのデザインとか、ライフスタイルっていう消費パターンがここ最近の大きな流れのように思います。

生活を便利にするんじゃなく、暮らしを豊かにするための消費の仕方という見方は斬新で、『北欧、暮らしの道具店』さんがメディアで露出して有名になる頃には世の中のスタンダードでさえあると感じたものでした。

1世代前:生活が便利を消費
いまここ:暮らしのデザインを消費

と、あえて区分してみるのであれば、「1世代先」をどう考えるかによって未来の消費を想像できるような気もするし、これからのメディアの在り方としてのふるまいも見えてきそうです。

でもぶっちゃけ・・・・

ここでいきなり、多様性とかダイバーシティって言っていいですか。笑

やっぱ●●世代で区分できないし、消費スタイルなんてそれぞれでしょ、なんて思ってしまうところもあります。

今も生活を便利にすることを消費することが好きな人もいるし、体験価値に喜びをもってサービスやコトを消費する人もいる。暮らしをデザインして、精神的な豊かさを求める人だって当然いる。

私なんかは、そういう「感じる」ということを飛び越えて、いきなり精神性のレベルで豊かさを得たくなるような「思想消費」みたいなところがあって、ニッチにもほどがあると思う層だと思う。ゆえに、ストーリー商品にも弱かったりするわけです。

ただ、商品やサービスの提供者側として考えるときには、それではイカンと思っています。こういう場合はたいていの着地が「教育」になったりして、ダイレクトに「こうだ」と届けたくなってしまう。

そんな窮屈さこそ、これからの時代にはミスマッチじゃないでしょうか。

直接ではなく間接。ストレートにいかず、なにかの媒体やら触媒を経由するからこそナラティブが生まれるというか。誰かの物語や主人公ストーリーを聞きたいんじゃなく、みんな自分の人生を自分らしく生きたいわけで。

消費スタイルが多様化して、いろいろなニッチが出てくるとは思うけれど、キーワードは「モノを経由した間接的な思想消費」。つまり今回の冒頭にも書いた “意味的消費” に着地しそう。

あえて結論化するのであれば、マーケットインからの硬派なプロダクトだけで「意味や背景を汲み取れよ」はどこかむずかしいと思うし、でもそれがなければ人の欲望はけっこう危険な気もしています。

人が欲しいものを追求してきた結果、いま地球がヤバいんじゃないの?

世の中を便利にしようとすればするほど、地球の異常事態を加速させているって事実をみるならば、私たちはもうマーケットインしてはいけないんじゃないかとすら思うのです。

これまで得てきた ”便利” を地球に還元していくような消費…。

とんでもないところに着地してしまったので、次回は具体的に「どんな消費哲学」を持つことが、これからの企業側には必要なのかを考察していきたいと思います。

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