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日本の健康至上主義を問い直す~幸福な国々の死生観から見る健康~②

2章:日本における「養生」と「健康」

 1章では「健康」、ひいては「死」への捉えられ方が現代社会へ大きな影響を与えていることが考えられた。ではそもそも「健康」とはいつごろから考えられ始めたのか。日本における「健康」を語る上で、「養生」という考えは外せない。「養生」とは、江戸時代の儒学者、貝原益軒の『養生訓』に代表される、中国の儒教思想や朱子学に基づいた考えのことである。

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現代における「健康」は、実はこの「養生」から始まっている。本章では、その「健康」の成り立ちである、「養生」に焦点を当て、「健康」への遷移や、「養生」が当時の社会に与えていた影響について、分析していく。本論文冒頭で、明治維新、戦後のアメリカ主導の改革という2度の大きな契機が健康観に大きな影響を与えたと論じた。その契機以前は「健康」に対して、どのように考えられていたのか。戦国時代を終え、天下安泰の時代であった、江戸時代で、当時の社会で広く普及していた貝原益軒の養生訓をヒントに、その当時の「健康観」を分析し、現代における「健康」との違いについて考察し、現代社会における問題の解決への糸口を歴史的な観点から模索していく。

1節:日本における「健康」の起源

 かつての日本では現代のような「健康」ではなく、「養生」という考えが広く普及していたが、いつごろから「健康」という概念が生まれ、「養生」から「健康」へと変わっていったのだろうか。この「健康」という言葉について、歴史をさかのぼって分析していく。
 まず初めの文献として、『養生訓』を見ていく。このころはまだ「健康」という言葉は存在していなかった。だが『養生訓』の中で貝原益軒は「~年若く康健なる時よりはやく養うべし。」と健康ではないが、ベースとなる「康健」という逆語は存在していた。この『養生訓』の「康健」について北澤(2003,p61)は

この「康健」というのは、中国では唐の時代から使われている言葉で、今の健康という言葉によく似た意味を持っていますが、現在ではあまり使われていません。益軒の言葉を見ると、「今持っている元気を無駄に消費しないように倹約して保養せよ」と書かれています。

 以上のように述べている。北澤の主張の通り、当時の「康健」とはまさに養生そのもののことを指しており、現代の「健康」とは共通の文字であるが、順番が反対であることからも、意味的には対照的であることが伺える。したがって、江戸時代中期のころはまだ「養生」が広く普及していたことが伺える。
 次の大きな動きとして、1796年、貝原益軒のころから少し時代が経ったころ、医者である稲村三伯が記した『波留間和解』というオランダ語の辞書の中で、オランダ語の「welstand」、「welzyn」という言葉に「健康」という対訳が見られた。だが、この言葉をオランダ語の辞書で調べてみると、「安全」、「福祉」、「繁栄」といったような意味になっている。では、「health」という意味に近いオランダ語の「gezond」には「康健」という訳が使われており、「健康」という言葉はまだ見られない。つまり、この稲村三伯の『波留間和解』の頃においても、現在の「健康」には程遠いことがわかる。だが、ここでの大きな流れとして、オランダの翻訳が肝心な点である。オランダ語の翻訳をするにあたって、日本には存在していなかった西洋の概念を言い表そうとしたところから「健康」の歴史を辿る上で非常に大きな影響を与えた。

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 この頃からもう少し時代を経て、幕末期に差し掛かる時代の1835年ごろ、西洋医学者の高野長英が記した『漢洋内景説』の中で、「健康」の文字が見られるようになる。またほかには、西洋医学者の緒方洪庵が記した『遠西原病約論』においても「健康」という文字が見られる。この西洋医学者である2人が使っている意味として共通していることは身体の内外の器官が常に正常であること、普段と違うところがあるとそれを「疾病」と表現し、現在使われている意味で「健康」を使っていることが重要なポイントである。だが、この時代においては「健康」に対する考えが幅広く、体の状態に合わせて、すべての調子が良ければ「全康」、どこか少し調子が悪ければ「常康」というように、言葉としては「健」と「康」との結びつきはそこまで強くなかったと言える。他にも数多くの類義語があったとされている。
 さらに時代を経て、1872年に衛生学者である緒方惟準が記した『衛生新論』や同年の『啓蒙養生訓』のころになり、やっと「健康」という言葉が定着し始めたが、あくまでも啓蒙書の一部であり、「健康」は世間一般にはまだ普及していなかった。
 そして、明治時代に入り、明治維新の風潮の中、福沢諭吉が記した『学問のすゝめ』の中で、世間一般に向けられた書物の中でやっと「健康」という言葉が使われるようになり、現代のような意味で「健康」が普及していった。

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北澤は「健康」の起源をまとめ、

  1790年代:オランダ語の訳語の一つとして「健康」という語が作られる
  1810年代:複数の類義語が試される
  1830年代:生理学的概念として「健康」の使用例が増える
  1850年代:医学書の中で「健康」が支配的になる
  1870年代:啓蒙書で類語と一緒に使用され始める
  1890年代:一般的に広く知られる語となる。

 以上のように日本の歴史上においての「養生」から「健康」への移り変わりを整理している。鎖国時代、中国の思想に強く影響させられてきた日本の中で、オランダという国が西洋的な影響を与えた。その後、明治維新を機に制度だけではなく、文化までも西洋化していったことで「養生」から「健康」へと変化していったと考えられる。
 つまり、流れとしては「養生」の時代から、“健康”という名の「養生」の時代、西洋的な「健康」の輸入、そして現代における「健康」へと移り変わっていった。特に明治維新、さらには戦後のアメリカ主導の改革は、現在の日本の社会に大きな影響を与えており、欧米諸国に追いつくために、欧米諸国に負けない体つきを目指し、「富国強兵」政策の下、身体を鍛える「健康」を作ることが重視されていった。

2節:「養生」と「健康」の違い

 日本における「養生」から「健康」への歴史的な流れから、「健康」という言葉の起源を探ってきた。では次は、特に「養生」の特徴に焦点を当てて、「健康」の特徴と比較しながら、分析していく。
 「養生」が普及していた当時は江戸時代中期。長く続いた戦乱の時代から安泰の時代へと移り変り、経済の成長とともに、人々の暮らしは次第に豊かになっていった。このころは元禄文化、化政文化など文化が発達した時代でもあり、暮らしが豊かになるにつれて現代と同じく、人々は身体に気を遣うようになる。そんな中、当時の本草学者、儒学者であった貝原益軒が『養生訓』という書物を出版し、朱子学や儒教の影響を強く受けていた「養生」という健康法が、鎖国下の日本で広く普及していった。著者の貝原益軒は平均寿命が50歳の時代の中で84歳まで生きた人物であり、まさに「養生」の重要性を貝原益軒自身が証明している。『養生訓』では、生まれ持った自分の体を大切にし、病気にならないように未然に防いでいくように説いている。病気とは字の通り「気を病む」ことであり、病気にならないためには自然の気を取り入れ、古くなった気を外に出す、「気」の循環が重要であると考えられている。西平(2021,p3)は「養生」の特徴について、

 養生は、医者から治療してもらうわけではない。自分で自分をケアする(労わる・休ませる・養う)。しかし「鍛えること」はしない。鍛える(トレーニング)というほど身心への負荷は強くない(この点は修行や稽古と異なる)。

 以上のように述べている。西平の主張より、「養生」には3つの特徴が考えられる。1つ目は、身体を労わる・養うということ。2つ目は自身の身体を他者に診てもらうわけではなく、自己で管理するということ。3つ目は、「老いの知恵」とあるように、老後、ひいては死を見据えている点で人生を量的な見方ではなく質的な視点を有していること。つまり、「養生」とは与えられた生命を自己で養い、善く歳を重ね、善く人生を終えるための健康法のことである。
 まさに「善い歳の重ね方の指南書」といったような「養生」の特徴を記したが、「健康」とはどのように異なるのだろうか。「養生」の持つ3つの特徴を「健康」と比較しながら分析していく。

① 身を労わる「養生」と身体を鍛える「健康」

 はじめに、身体を労わる・養う点について分析する。「養生」と「健康」の大きな違いは、生まれた時の身体の状態の見方にあると考える。この違いについて北澤(2000,p151)は

  「身」は生まれた時点で生きていくために必要な「気」を十分備えていると考えられていました。したがって、天然に備わっている身になにかそれ以上のものを補ってやる必要はありません。そのため養生術は、この身がもともと持っている気が減らないように「保存」する方法です (中略)
ところが「身体」は、生まれたばかりの時点では、人生で最も「未熟」で弱い状態と考えられています。したがって健康法は、身体を適切な運動によって「鍛えて」強くすることを考えます。

 以上のように述べている。時代別において考えると、江戸時代の人々は人間の体のことを「身」と呼び、明治時代の人々は「身体」と呼んでいた。したがって、北澤の主張より、「身」が持つ気の保存を行うことが「養生」で、未熟な「身体」の成長を目指すことが「健康」と区別できる。例えば、同じ運動においても、「養生」においてはあくまでも気を巡らすために行う。一方で「健康」においては筋肉の発達や、循環機能の成長のために行う。これらの考えはそれぞれの時代において個人の健康観だけではなく、社会にも大きな影響を与えていたと考えられる。現在はSDGsといった持続可能社会、循環社会を目指す動きが盛んであるが、「養生」が主流であった江戸時代には、持続可能社会、循環型社会が既に成立していた。例えば、現代におけるマイバッグのような風呂敷や、排せつ物やごみを堆肥としての再利用などが挙げられる。江戸時代において、この循環社会が成立していた背景には、まさに「気」の循環を重視する「養生」が身体に根付いていたからであると推測する。

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 一方で、「養生」から「健康」へ変化した明治維新以後は、世界的な流れで見ても大戦の連続である。その背景には、イギリスにおける産業革命による資本主義社会の誕生があり、世界各国が成長を目指す時代であった。そして、日本においても同様であった。なぜ、右肩上がりの成長を目指すのか。やはり「鍛える健康」が根付き始め、身体においても成長を目指していたからであったと推測する。
 したがって、人々の健康観に関する考えは、自身のみならず、社会にも少なからず影響を与えるということが伺える。

② 私的問題の「養生」と公的問題の「健康」

 続いて、「養生」の大きな特徴として、自己で自身の身体を管理することであると記した。自身の身体は他の誰の物でもなく、自分だけが所有できるものである。したがって、自身の健康状態について、把握し、管理することができるのは、唯一自分自身のみである。つまり、「養生」とは常に自己との対話でもあるため、自身の健康状態に関する私的な問題であることが言える。
 では、「養生」における「死」は誰の物か。言うまでもなく自分自身のものである。なぜなら、「養生」は私的な視点を持ち合わせており、1章2節で論じた、「私的な死」だと言える。「私的な死」は1人称、2人称が含まれる。したがって、江戸時代において、野辺送りや、村八分の例外に葬式があったのは、「死」が「私的な死」である、つまり1人称でもあり、2人称の物であったからだと考える。
 一方で、「健康」へと転換していった背景に明治維新後の西洋化と論じたが、実は明治維新以前のコレラという感染症も大きな影響を与えていた。コレラは感染力が強く、驚異的な致死率で、江戸時代末期には大量の死者が発生したとされている。「養生」だけでは対処できず、「健康」への遷移を促進させたと言える。コレラは現在の新型コロナウイルスと同じように、消毒と隔離で対策されていた。西平の解釈によると、当時、消毒を担当していたのは警察で、コレラを封じ込めるという大義の下、国家や警察が、衛生を管理していくようになっていった(人々の暮らしに介入する)とされている。さらに、大戦時代において、自国民は主戦力になる。つまり、病弱な国民は国家にとって、不利益となるのだ。したがって、感染症の蔓延、富国強兵政策という社会背景が、自己管理での健康体から国家管理による健康体へと変化させた。もちろん、この時代においては「死」も国家の物となっていくため、病院で管理され、死者数として数字でカウントされていくようになる。これが1章2節で記した「公的な死」ということだ。

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 以上のことより、自身で健康体を作り上げたのが「養生」の時代で、国家から健康体を与えられえるのが「健康」の時代であることが言える。そして、現代はまさに「健康」の時代である。コロナ禍の現在ではコレラの時と同様、「健康」という大義の下、人々の暮らしにどんどんと介入していく。しかし、「健康」がもう既に根付いている現代の人々はその状況に対し、疑問を抱かない。なぜなら、この健康体は自分で得たものではなく、国家から与えられているからである。
 そして、これらの考えの違いは共同体の在り方にも違いを生み出す。健康体を自分で作り出す「養生」においては、私的な視点から社会も自分達で作り出す。しかし、健康体を与えられる「健康」においては、国家の指示がすべてのため、与えられた領域で生きる。これが現在の社会であり、まさに日本が「同調圧力」が強いと言われる所以ではないだろうか。同じ共同体でも、自分達で作り出す私的な視点があれば共同体となる。反対に、与えられている共同体は、共同体ではなく、「同調体」とでも表せるだろう。現在の日本の幸福度が低い原因の一つに、「同調体」を生み出した、「養生」から「健康」への変化があったと言える。

③ 質的思考の「養生」と量的思考の「健康」

 これまで「養生」の特徴から、一見すると実践マニュアルのようだが、単なる肉体の健康管理ではないと西平は述べる。
 貝原益軒は「養生」の本質である「節欲」を勧め、その「内欲」に警戒していたとされている。貝原益軒によると「内欲」は内部から来て人を滅ぼす。あるいは、内部から外敵を呼び込むため危険である。しかし、この「内欲」を適切に対処し、むしろ欲を活かし、元気を養うべきであると説いた。
これは陰と陽のバランスを保つことを勧めていたのではないかと考える。例えば、人間の三大欲求に挙げられる、食欲、性欲、睡眠欲は、適切な限度であれば、人間の活力となる。しかし、過剰に至ると、病を引き起こす。現代における生活習慣病が最たる例だ。したがって、マイナスにもプラスにも働く内欲を適切に対処するための方法として、「養生」における「節欲」が推奨された。マイナスをプラスに働かせる循環こそが「養生」の本質であろう。マイナスが行き過ぎると、人間にとって害となる。しかし、このマイナスにもなるものがなければ、プラスに働くこともなくなるのだ。これはまさに本論文の主題である「死生観」にも当てはめることができる。
 「健康」においては、このリスクともなりうるマイナス面を排除する傾向が見られる。「鍛える」という行為は、まさに老いや死を遠ざけることが目的にある。人間にとって、「老い」や「死」は好ましくないものである。このマイナス面を受け入れ、うまく向き合ったのが、「養生」であり、マイナス面を排除しようとしたのが「健康」であると言えるのではないだろうか。現に、「健康」を重視する現代では陰と陽のバランスが崩れているため、幸福度が低いという形で表れている。故に幸福を目指すには、不幸が必ず付き物なのだ。人間にとっての不幸である「死」を排除してしまっては、幸福は得られないということをまさに現代社会が証明している。
 以上のことから、「養生」と「健康」は社会に大きな影響を与えていたと断定できる。「健康」のように成長を目指すと、陰と陽の循環はできない。また自己でその陰と陽の循環を目指さないと循環社会の共同体は成立せず、「同調体」となってしまう。そして、マイナス面、すなわち「死」という不幸を受け入れないと幸福は得られないことをまさに現代の日本が証明している。コロナ禍の現在の日本の有様を見て、『養生訓』を説いた貝原益軒はどう思うだろうか。もしかすると、現在の日本を救う答えはこの「養生」にあるのかもしれない。

⇒③に続く
https://note.com/hiroto1113/n/n06e7299c077f



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