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日本の健康至上主義を問い直す~幸福な国々の死生観から見る健康~③

3章:幸福な国々の死生観

 これまで、1章では現代の日本における「死」の問題について、2章では「養生」と「健康」から見る「死」の問題について、日本において遠ざけられている「死」を分析してきた。では、反対に現代における幸福な国では、「死」はどのように捉えられているのだろうか。本章では、同じ現代における幸福な国々を死生観の観点から分析し、日本へのヒントを模索していく。

1節:スウェーデンの死生観

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1項:スウェーデンについて

 毎年実施される世界幸福度調査で、例年通り上位である国といえば、北欧諸国が有名である。北欧諸国とは、具体的にスウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェーの4カ国が挙げられる。2021年の順位を見てみると、それぞれ7位、2位、1位、6位である。これらの国々では、福祉・医療制度が充実していたり、女性が活躍しやすい社会であったりと幸福度が高い理由が伺える要素がたくさん存在する。
 ではこれらの国々の死生観はどのように幸福度に影響しているのだろうか。分析をしていくにあたり、2020年に新型コロナウイルスが流行し始めた際のスウェーデンの対策を取り上げる。このスウェーデンの対策にはまさに死生観が反映されていると考えられる点が存在した。以下は北欧諸国のうち、特にスウェーデンに焦点を当て、死生観と幸福度の関係性について分析していく。
 新型コロナウイルスが流行し始めた2020年初頭、世界各国はそれぞれ緊急事態宣言を発令し、ロックダウン、都市封鎖という形で多くの国が対策を講じた。そんな中、スウェーデンは世界で数少ない、ロックダウンを講じない形で感染対策に向き合った。同じく、我が国日本でおいても、海外諸国のように強制力の強い形での都市封鎖は行われず、スウェーデンとほぼ同じような状況下であった。日本とスウェーデン、類似した状況下においてのそれぞれの違いについて、分析していく。

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 ロックダウンについては、各国それぞれ憲法上の理由も大きく関わっており、その点について、ここでは省略する。ではどのような理由でスウェーデンはロックダウンを講じなかったのか。その要因の一つとして、スウェーデンの死生観が大きく影響していると考察する。新型コロナウイルスは高齢者を中心に多くの死者を出した。実際に数字で見ても2020年7月時点で日本の死亡者数が約1000人であったのに対し、スウェーデンは約5600人とかなり高い死亡率の水準であり、多くの批判が寄せられた。
 しかし、宮川(2020,p10)はスウェーデンの死生観とロックダウンについて、

混乱が少なかった理由として、スウェーデン人の死生観も影響しているかもしれない。70歳以上の高齢者が新型コロナに感染して重症化した場合には、予後はどれくらいありそうか、後のリハビリに耐えられるか、といった点を総合的に判断し、ICUに入れるかどうかを判断する裁量が医師には与えられている。また、家族の意向も、日本ほど強くは医師の判断に影響しない。人間は誰しも死ぬ時は死ぬ―スウェーデン人はそのことを日本人よりも受け入れているのではないか。

以上のように述べている。スウェーデンを始め、北欧諸国では高負担高福祉政策の下、医療費が無料といった環境であるにも関わらず、高齢者はできるだけ医療に頼らない人が多いという。そのような社会であることからも、やはり宮川が述べたように、「人間は誰しも死ぬときは死ぬ」という死生観を持ち合わせていることが伺える。以上のことから医療制度や今回のロックダウンのような政策に踏み切れたのではないかと考察する。
 そして、スウェーデンの死生観を語る上で欠かせないものがある。それは世界遺産に登録されている、スコーグスシュルコゴーデン(Skogskyrkogården)(通称:森の墓地)という共同墓地だ。スコーグスシュルコゴーデンをはじめとする共同墓地、いわゆる「ミンネスルンド」について、考察していく。

2項:共同墓地から見るスウェーデン

 1項で論じたように、「人間は誰しも死ぬときは死ぬ」というスウェーデンの死生観を語る上で、「自然」との近さは欠かせない。スウェーデンの終末期ケア施設、いわゆるホスピスにおいて、終末期を迎えた高齢者の行動について、斎藤(2015, p90)はスウェーデンにおける「良い死」は、自然との調和が保たれている状態を指していると述べる。やはり、スウェーデンの死生観の土台には「自然との近さ」が存在していると考えられる。だからこそ、コロナ禍の中で、スウェーデンはあのような政策が実行できた。この「自然との近さ」という点は、近年スウェーデンだけでなく、ヨーロッパで見られる「共同墓地」と大きくつながっているように思われる。
 また、スウェーデンは高福祉国家として知られているが、日本よりも一足先に高齢化が進んでいた。高齢化が急速に進んでいった日本に対し、緩やかな高齢化の中で、福祉制度を模索しながら、時間をかけて整備していったのがスウェーデンである。そんなスウェーデンで近年、共同墓地が普及しているということから、共同墓地について分析を行っていく。

世界遺産 スコーグスシュルコゴーデン(森の墓地)

(実際のスウェーデンの共同墓地のスコーグスシュルコゴーゲン)

 スウェーデンでは「人格崇拝思想」という考えが普及しており、大岡(2004,p158)は、

人格崇拝の論理は、自分とはまったく縁のない痴呆老人であっても、その老人に生命がある限り人格を認め、その人格そのものを「聖なるもの」とみなすことであった。つまり、人格崇拝は自分の家と縁のある身内の老人だから介護するという個別主義を越え、家と縁があろうとなかろうと普遍的にすべての老人を介護するのだという普遍主義にいたることを可能にする。

以上のように述べている。スウェーデンにおいても、従来は日本のように、家族単位で介護をしていた。しかし、高齢化に伴い、高齢介護を公的サービスとし、国家が看る仕組みを作り上げた。これを大岡は「国民の家」と表現している。つまり、共同体が地域、家族間から、国家間という、国全体が「大きな家族」ような形に変化していったと考えらえる。
 そして、スウェーデンにおいて共同墓地が普及していった理由については大きく2つが挙げられる。1つ目に「国民の家」制度における墓問題が挙げられる。人格崇拝思想において、原則はやはり血縁者が老人を扶養するのだが、血縁者のいない、もしくは関係性が薄い老人でも、隠居契約や間借り、あるいは介護施設などで社会から扶養されることができる。血縁者がいる場合、その家の墓に入ることができるのだが、問題はそういった人たちの死後の墓問題なのだ。日本も同様に高齢化が進むにつれて、承継者がいない人が増えた。そんな人たちの眠る場、いわば「国民の家」に対する『国民の墓』として共同墓地が発展していったと考えられる。
 2つ目に、墓の土地不足問題が挙げられる。これはまさに日本でも現在直面している問題でもある。スウェーデンでも、かつては土葬の形式を取っており、それをベースに墓の形を取ってきた。しかし、高齢化が進むにつれて、墓の土地不足問題が浮上し、少しずつ土葬から火葬が主流になっていき、墓を持たない散灰の形の1つとして、共同墓地がおのずと普及していったと考えられる。
 スウェーデンの共同墓地は「共同性」「匿名性」の2つの特徴を有している。本来の墓の形では、「死者との交流の場所」としての意味合いが大きい。死んだ者はもう既にこの世にはいないのだが、残された生者の記憶の中では生きているのだ。つまり、墓は死者が「死後の生」を生きる場所としての場所であるということだ。この場合、亡くなった人は「個人」として埋葬されており、残された生者が生きているうちは「個人」のままなのである。そして、時の経過とともに、「個人」の存在も薄れ、自然や先祖といった「匿名」の世界へと移行する。一方で共同墓地では、本来の墓とは違い、散灰に立ち会うことができず、「個人」は時間の経過を経ないで、そのまま「匿名」の存在として、葬送される。そして、森や自然といった「共同性」の世界へと還っていく。

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 そして、これらの特性を持つ共同墓地が普及しているからこそ、スウェーデンは幸福なのではないかと考えられる。特に共同墓地が持つ「共同性」は、死後だけでなく現世にも大きな影響を与えている。いわば、アカの他人である人達とともに眠る共同墓地は、現世において、人と人とのつながりを生み出している。故に、スウェーデンでは「人格崇拝思想」という考えの下、「国民の家」体制を実現できたのではないか。共同墓地という共通した人生のゴールあるからこそ、縁もゆかりもない人であろうとも共同体の一人として、助け合い協力し合うことができる。スウェーデンにおいては、共同墓地が「2人称の死」の範囲を広くしている。血縁ほどの強い繋がりではないからこそ、「2人称の死」は先鋭化しない
 以上のことから、緩やかなつながりで成立している共同体であることがスウェーデンの幸福度の高さの所以であった。そして、その背景には社会における「死」の受容を可能にする共同墓地の影響がある。スウェーデンの死生観からも「死」がまさに共同性を持ち合わせていることが明らかとなった。
 しかし、近年スウェーデンにおいて、共同墓地の「半匿名性」の流れが起こっている。そもそも「匿名性」という性質はスウェーデン特有の風習であり、イギリスなどのヨーロッパの国々でも、共同墓地が見られるが、墓標が存在している。墓標が存在する共同墓地とは、共同性を持ちつつも、故人とのつながりとしての意味合いも持つ。以上のことからやはり、人間にとって、「個人」から自然への回帰までの時間の経過は必要なのかもしれない。今後のスウェーデンの共同墓地の在り方は、同じく高齢化の進む日本において、進むべき社会のヒントを与えてくれるに違いない。スウェーデンの「共同墓地」は引き続き注視していく必要がある。

2節:ブータンの死生観


1項:ブータンとは

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 世界には他にも「世界一幸福な国」と呼ばれる国が存在する。その一つが本節で取り上げる、ブータンである。ブータン王国(通称:ブータン)はヒマラヤ山脈のふもとに位置する国で、中国やネパールに隣接している。およそ国土の7割が山や、川などの自然に覆われており、日本と同様に明確な四季が存在していると言われている。ブータンの主な宗教は仏教であり、中でもチベット仏教を信仰している人が大半である。以上のことから対極に位置するスウェーデンとは対照的でブータンからは日本との共通点が多く見られることが伺える。またブータンの歴史的背景として1971年に加盟するまで、鎖国政策と取っていたため、グローバル化が進む現代において、未開拓の自然や伝統的な生活風習が現存しており、「最後の秘境」とも評される。そんなブータンの幸福度調査における順位は最2019年に95位と、日本よりも大きく下回る順位であった。しかし、世界幸福度調査は欧米基準の価値観の下で評価されており、あくまでも客観的数値で測ることができる指標の範囲のみの調査に過ぎない。故に、世界幸福度調査には反映されていないにも関わらず、ブータンが「世界一幸福な国」と言われるのは、客観的に測られる幸福ではなく、主観的な幸福を重視しているためではないだろうか。そんなブータンの主観的な幸福を死生観の観点から分析していく。

2項:GNHを目指すブータン

 ブータンが「世界一幸福な国」と称される原因としていくつか理由が挙げられるが、大きな理由として、世界幸福度調査のような項目ではなく、国民総幸福:GNH(Gross National Happiness)を政策に掲げている点にあると考えられる。世界幸福度調査の調査項目の中において、国内総生産:GDP(Gross Domestic Product)は経済成長の度合いを示し、GDPが大きければ大きいほど経済的に豊かであるという視点から幸福を語る上で、重要視されてきた。しかし、1968年に、当時のアメリカの大統領ロバート・ケネディはGDP(当時はGNP)に対し、演説内で批判した。近代の経済の発展は様々な犠牲の上で成り立っており、その犠牲に目を向けなければ、この成長もいずれ失われるということを指摘していた。先進国の代表であるアメリカが、この当時にGDP、いわば経済成長のみを重視し、このような批判を投げかけたことは非常に重大ではないだろうか。しかし、この演説を行ったロバート・ケネディは3ヶ月後に暗殺され、皮肉にもアメリカを始め、世界各国はマイナス面には目を向けず、さらなる経済成長を追い求め、現在に至ってしまった。そして、次第にGDPと幸福度が相関しないという調査結果も発表され始め、世界幸福度調査の調査項目のようにGDPだけでなく多方面から幸福を計るようになったと考えられる。

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 経済成長を目指すだけは幸福には至らないという、先進国の近代化の矛盾に真っ向から向き合った結果、ブータンはGDPではなく、独自の指標であるGNHを掲げている。では、そのGNHとはどういう特徴を持ち合わせているのだろうか。次項ではGNHの根底にある3つの考えを分析していく。

3項:「死生観」から見るGNH

 ブータンにおけるGNHは国の近代化を進める「開発の哲学」であり、「伝統文化の継続」「自然環境保全」「仏教世界観の継承」という3つの考えを根底にしていると本林(2006,p75)は述べる。そして、その3つの根底にはブータンの死生観が大きく影響を与えていると考えられる。
 ブータンでは主にチベット仏教が主流であり、チベット仏教の影響を大きく受けて、ブータンの死生観は構築されている。ブータンの死生観では、生死の境界が存在しないと言われる。これはチベット仏教の「輪廻転生」が大きく影響しており、長い輪廻の中の一コマとして現世が存在し、来世に生まれ変わるために現世で徳を積むことが人生の目的とされている。そして、死んでも自然に還ると信じられているため、「死」を恐れることはないそうだ。

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ブータンの死生観について、本林(2004,p144.145)は、

また、死後の追善供養に関しても、基本的に四十九日間で、人が次の生に輪廻するまでの中有(中陰)の間だけである。これ以後は、日本のように一回忌とか三回忌といった年忌法要をする家庭は少ない。
(中略)
何よりもブータンでは、亡くなった人は絶えず輪廻し生まれ変わっているので、亡くなった人をずっと供養することは意味のないことなのである。

以上のように述べる。ブータンでは、「死」に対して非常に淡泊であり、現世にのみ執着することはないことが伺える。またブータンの死生観が表れている具体的な例として、ブータンには墓が見られない。なぜなら、亡くなった人は絶えず輪廻して生まれ変わっているため、供養する必要がないからだ。代わりに“ツァツァ”という粘土づくりの小さな仏塔を108個作り、そこに遺灰を混ぜ込み、仏壇に供え、奉納する。“ツァツァ”は時の経過とともに、風化していき、いずれ自然へと還っていく。あるいは遺灰を川に流して自然に還す場合もある。

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 したがって、ブータンにおける、自然とはスウェーデンでの「共同墓地」のような存在であり、共同墓地と同じく「匿名性」、「共同性」の性質を持ち合わせていると言えるのではないだろうか。したがって、自然が国民の眠り場所として捉えているからこそ、幸福の根底として、「自然環境保全」をGNHで掲げたと考えられる。そして、自然そのものを共同墓地のように扱っているため、スウェーデンの『国民の家』よりも大きい範囲での『国民の家』としてブータンという共同体は成立している。
 またGNHにおける「伝統文化の継続」、「仏教世界観の継承」は輪廻転生観の下、皆の共同墓地である自然を保全していくために欠かせないものである。それはまさに「死生観」を引き継いでいくためであり、ブータンにおいても、スウェーデンと同様、国家を共同体として成り立たせるために「死」が不可欠であることを理解しているからこそ、この2つを掲げていると考えられる。つまり、ブータンにおいても、幸福の背景にはスウェーデンよりも大きな規模の共同体で「死」を受け入れることが伺える。
 さて、ブータンは1971年に国際連合に加盟、翌年1972年にGNHを掲げるなど、未だ探りながらの状況であり、独自の路線で走る実験段階であることも確かだ。そんなブータンにおいても近代化の波が少しずつ押し寄せており、グローバル化する現代社会における近隣諸国とのつながりはブータンの文化に影響を与えている。

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 例えば、以前は自国の文化に影響を及ぼすという理由でテレビ放送が禁止されていたのだが、1999年以降、インドのケーブルテレビの放送が許可されて以降は影響を受けやすい若者や子どもたちに西洋へのあこがれを抱かせる結果となり、チャンネル数を減らすといった出来事があった。
ブータンにとっては、今後、他文化との距離の取り方がカギになってくると思われる。グローバル化、情報化が進む中で、ブータンの伝統文化をいかに保存しながら、歩んでいくのか。ブータンのこれまでとこれからは、同じアジア圏の仏教国という共通点を持つ我が国に、必ずヒントをもたらしてくれるだろう。GNHという独自の路線を進むブータンの果敢な挑戦をこれからも見守っていく必要がある。

3節.日本の死生観と両国との共通点

 1節、2節と幸福な国であるスウェーデンとブータンの死生観について分析してきた。では日本の死生観はスウェーデン、ブータンに対して、どのようなものであるのだろうか。本節では日本の死生観に関して分析を行い、スウェーデンとブータンの両国と比較していく。

1項:日本の死生観

 縁の有無にこだわらず、人格崇拝思想の下、「国民の家」として、「家の境界」の突破し緩やかな共同体を成立させているスウェーデン。チベット仏教における輪廻転生観を下に、自然と共に生きるブータン。現在では、「死」を社会の中から遠ざけ、幸福が低い国とされている日本。「死」が遠ざけられたということは、日本においても「死」を大切にしていた時代があるはずだ。柳田国男の『先祖の話』を読み解いた、本林と大岡の主張を交え、日本の死生観について分析していく。
 日本の死生観の特徴として、「生者と死者の共存」「先祖回帰」の2つが考えられる。本林(2006,p135)はお盆や彼岸の墓参りを例に、「生者」と「死者」とが共存する世界観があると述べている。さらに民俗学者の柳田国男の著書『先祖の話』を用い、死者と生者の関係性について、本林(2006,p146)は

柳田は「日本人の多数が、もとは死後の世界を近く親しく、何か其消息に通じて居るやうな気持を、抱いていた」と述べている。その理由として、死んでもこの国の中に霊はとどまっており、遠くに行かぬと思ったこととある。

以上のように述べている。まさにこれは、一章の中で、養老が述べた「死体でない死体」に通ずる部分がある。日本においては、生者の記憶の中で、死者が忘れ去られない限りはこの世に存在しているように扱う。そして、その死者とつながることが可能にするものが日本における「お墓」の意義のひとつであったのではないだろうか。

はじめてのお墓選び


 そしてもう一つの特徴である、「先祖回帰」について、大岡(2004,p206)は

伝統的な日本の信仰においては人は死んだ後には個人格を失い、大きな霊体の中に融合していくという。(中略)
これは、もともと多くの人々の魂が溶け合っている自然から人は生命を与えられ生まれてきて、死ぬとまた自然へ帰っていき再び溶け込んでいくという考えであった。

以上のように述べている。死後、家の先祖が眠るお墓に入り、子孫に供養されることで先祖へと回帰することができる。それこそがまさに死後の幸福であり、日本におけるお墓は大岡が述べる「家の境界」のようにまさに血縁を大切にする日本の象徴であった。以上の両者の主張から日本の死生観には、お墓の存在が大きく影響を与えていることが言える。

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 しかし、日本の死生観をつなぎとめていたお墓はいずれ失われていくと予想される。共同体が崩壊し、人と人とのつながりが薄くなってしまった現代の人々は「無縁化」という問題を抱えている。西洋化が進み、都市化、核家族化が進行していく中で、子どもを産まない夫婦や、独身者が増えている。さらには家という繋がりがありながらも、家庭内での無縁化が進んでいる家も増加しており、そもそも「血縁」を持たない人たちが増えている。また、働き方の変化により、生まれた土地で、働き、家族を形成し、その土地で葬られるという形も少なくなっており、「血縁」のみならず、「地縁」までも希薄化している。そして、無縁化は墓の後継者不足を引き起こし、「墓終い」といった形で墓文化の終焉の動きが表れて始めている。さらに、かつてのスウェーデンと同様、お墓の土地不足問題が拍車をかけている。現代においても唯一、社会の中で「死」をつなぎとめていたお墓が「墓終い」という形で衰退していけば、日本においては「死」が今よりもさらに遠ざけられることが予測される。

2項:3国の共通点

 日本の死生観を分析した上で、次はスウェーデン、ブータンとの比較から、日本、スウェーデン、ブータンの3国の共通点について分析していく。
日本においては、お墓という死後の入り口を通じて、子孫に祀られることで先祖へと回帰していくことが幸福と信じられてきた。先祖へと帰化していくが、転生することなく、先祖という世界で安らかに眠る点ではブータンとは異なる。しかし、日本における「先祖」という世界は、まさにスウェーデンにおける「共同墓地」、ブータンにおける「自然」と同様、共同性、匿名性の性質を持つと考えられる。例えば、日本においては「弔い上げ」という風習があり、三十三回忌を迎えると「個人」としてではなく、その家族の先祖として、扱われる。スウェーデンにおいても、似たような文化が存在する。現地の方にインタビューしたところ、墓地には契約期間があり、25年後に申請しないと次の人へと譲られるそうだ。日本のように墓を守る考えとは正反対で、おそらく、スウェーデンにおいては25年で自然回帰のタイミングという風に捉えられているのではないだろうか。
 幸福の国と言われる、スウェーデンやブータンはかつての日本と同様に、社会の中で「死」を受け止め、共同性・匿名性を持つ死後の世界が、緩やかな共同体を成立させていた。
 以上のことから、かつての日本、スウェーデン、ブータンの3国の共通する部分として、「共同世界への回帰」が見られた。大岡(2004,p182)が述べた日本の「自然霊体への融合回帰」という死生観は、スウェーデンの共同墓地に見られる「素朴な自然回帰」、ブータンの輪廻転生から考える「死後の自然に回帰」と、3国とも死後は「共同性」、「匿名性」の世界への回帰が共通してみられる。死後の世界が共同世界という「共同性」を持つものがあるからこそ、現世における緩やかな共同体を成立させていたのではないだろうか。すなわち、その緩やかな共同体こそがポスト近代社会の形であり、幸福の在り方であるのだ。「養生」からだけではなく、現代の幸福な国々の分析からもやはり幸福には「死」が欠かせないということが証明された。
 しかし、日本はこれから「多死社会」を迎える中で、お墓文化の終焉の流れも見られ、勢いを増して、「死」が遠ざけれられている。そんな中で、どうすれば「死」を受け入れることができ、どうすれば幸福になれるのであろうか。次章では、ポスト近代社会としての日本の進むべき未来について提案していく。

⇒④に続く
https://note.com/hiroto1113/n/nb4bc9d750592

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