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ある政治家の死と、その遺志 現代の病「孤独」との戦いについて

2016年6月16日、イギリスでひとりの下院議員が銃殺された。
41歳で亡くなったジョー・コックス氏は労働党の次代を担うホープであり、2人の幼い子の母親だった。
欧州連合(EU)残留を問う国民投票の直前の悲劇に世界の目が集まり、日本のメディアでも広く報道された。ロンドンに赴任して間もなかった私もその一端に携わった。

暗殺直前の地元紙によるインタビューと悲報の第一報、Wikipediaのリンクを置いておく。

社会の多様性を重視するコックス氏は、EU残留派だった。
凶行におよんだトーマス・メアは当時52歳。反移民思想と白人至上主義の信奉者で、「ブリテン・ファースト(イギリス第一)」と叫びながらコックス氏に銃弾を浴びせた。
メアにはのちに終身刑が言い渡された。

暗殺から1週間後の国民投票で、英国民はEU離脱を選んだ。

孤独問題担当大臣の誕生

コックス氏の死から1年半後の2018年初めに、イギリスは孤独問題担当大臣(Minister for Loneliness)を創設した。
それはコックス氏の遺志を継いだものだった。

2015年の下院選の選挙活動中、コックス氏は有権者との対話や戸別訪問を通じて、高齢者や社会に居場所のない人々の孤独が根深い社会問題だと気づき、初当選の後、対策に取り組んでいた。
彼女の死後に超党派で結成された「ジョー・コックス委員会」は2017年12月に報告書を発表。テリーザ・メイ首相(当時)がスポーツ・市民社会担当政務次官の所管に「孤独問題に対する省庁横断的業務」を加え、孤独問題担当相が生まれた。2018年10月には孤独問題への包括対策を発表した。

日本語で比較的まとまった記事がこちらにある。

少し抜粋する。

・英国で年齢を問わず約900万人が影響を受ける「この時代の課題」
・孤独は1日たばこを15本吸うと同じくらい、健康に害を与える
・冬は寒さと孤独が合わさると危険で、死因になり得る
・国家統計局(ONS)が孤独を指標化。英政府は対策基金を設立
・75歳以上の人の半数が一人暮らし(イングランドでは約200万人)
・多くは、他人とまったく関わることなく何日も、あるいは何週間も過ごす

上記BBC記事より

記事には孤立する高齢者と若者それぞれに市民がどんなアプローチができるか、助言も記載されている。興味のある方はご一読を。

実は日本でも2021年に、イギリスに次いで世界で2番目となる「孤独・孤立対策担当大臣」が新たに設けられている。

日本の場合、いわゆる「ひきこもり」問題や貧困対策に重きが置かれているようだ。ジャーナリスト池上正樹氏が簡潔にまとめている。

孤独という現代の病

様々な研究が明らかにするように、孤独は心身をむしばむ深刻な問題だ。

私は以前、連続殺人犯の父の手記『ジェフリー・ダーマ―との日々』をテーマにこんな文章を投稿した。

執筆のきっかけは2019年に川崎で起きた無差別殺傷事件だった。
この事件では容疑者の50代男性について「ひきこもり傾向にあった」と伝わり、大きな波紋を呼んだ。
事件直後、「ひきこもりUX会議」が出した声明文を一部抜粋する。

・ひきこもっていたことと殺傷事件を起こしたことを憶測や先入観で関連付ける報道がなされていることに強い危惧を感じています。

・これまでもひきこもりがちな状態にあった人物が刑事事件を起こすたび、メディアで「ひきこもり」と犯罪が結び付けられ「犯罪者予備軍」のような負のイメージが繰り返し生産されてきました。社会の「ひきこもり」へのイメージが歪められ続ければ、当事者や家族は追いつめられ、社会とつながることへの不安や絶望を深めてしまいかねません。

・私たちが接してきたひきこもりの当事者や経験者は、そうでない人たちと何ら変わりありません。「ひきこもり」かどうかによらず、周囲の無理解や孤立のうちに長く置かれ、絶望を深めてしまうと、ひとは極端な行動に出てしまうことがあります。事件の背景が丁寧に検証され、支え合う社会に向かう契機となることが、痛ましい事件の再発防止と考えます。

川崎殺傷事件の報道について 「ひきこもりUX会議」の声明文より抜粋

「ひきこもり」への偏見や差別への懸念と並んで、私がこの声明文に強く共感したのは孤立に関する記述だ。再度引く。

「『ひきこもり』かどうかによらず、周囲の無理解や孤立のうちに長く置かれ、絶望を深めてしまうと、ひとは極端な情動に出てしまうことがあります」

『ジェフリー・ダーマ―との日々』は、人や社会とのつながりを失い、絶望的な孤立・孤独のなかから狂気が生まれる過程を描いている。
前述のnoteに私はこう記した。

我々はネットを通じて、世界中の人々と瞬時につながれる時代に生きている。
そして同時に、すぐ隣にいる人間とチャットアプリでやり取りをするような、奇妙な世界の住人でもある。
経済的な理由や価値観の変化で、結婚や家庭をもつという「人とのつながり」の土台として長い歴史をもつ営みも、誰もがとる選択ではなくなっている。
人口減少の中で進む地方の空洞化と東京一極集中は、人口過密化と同時に「都市の中の孤独」を加速させる。
これからも社会は変化し続けるだろう。
しかし、遺伝子の在り様に左右される生物としての人間の本質は、そう簡単には変わらない。
社会的生物として進化した人間は、孤独に対する耐性が低い。
私たちは、本能の奥底で、人との繋がり、誰かと感情を分かち合う共感を求めている。
ジェフリー・ダーマ―の「意志を持たない人形のような人間を自らの支配下にとどめおきたい」という歪んだ衝動ですら、そうした本性の発露だったのではないだろうか。
その本能を失ったとき、あるいはそれを歪んだ形で求めたときに、人間は壊れる。その絶望と狂気は、ときに自殺といった形で本人に向かい、ときに刃は他人に向かう。
孤独こそ、人を喰うモンスターなのだ。
今回の件について、ネット上では「今ほど快適に『ひきこもり』できる時代はない」といった言説も散見された。
リアルの世界を通じなくても人と人とが繋がれる、あるいは繋がりをもたなくてもネットにあふれるコンテンツとの仮想的な(と私には思える)繋がりをもって、「孤独」を逃れる道はあるのかもしれない。
それでも私は、そうした形で心身の平衡を保てるのは例外なのだろうと思う。
激しい時代と社会の変化の流れのなかでも、どこかで温もりのある、体温をもった繋がりを、人は求め続けるのではないだろうか。
その接点になるのは、ときには家族であり、ときには友人であり、職場やコミュニティーだろう。

『不良品』などいないが、孤独は人を喰う ある連続殺人犯の父の手記

孤独が暴力やテロを正当化するわけではない。
だが、「なぜ」を理解する手掛かりのひとつにはなりうる。
そして将来の悲劇の芽を摘むため、我々にできることはある。

ジョー・コックスが遺したもの

ジョー・コックス氏の遺志を継ぐために設立された財団は、世界中の女性の地位向上活動への助成金やシリアの民間人支援活動、そして英国内の孤独問題やヘイト犯罪への取り組みを続けている。

今年6月16日のツイートを拙訳で引用する。

6年前の2016年6月16日、ジョー・コックスはバトリー・アンド・スペンの有権者集会に向かう途上で殺害されました。ジョーに近い人々は、献身的な母、娘、姉妹、妻、友人、同僚を失いました。英国は才能ある国会議員、運動家、人道主義者を失いました。
ジョーの関心事は今も喫緊の行動が求められています。紛争地の民間人保護、政治における女性の地位向上、孤独を減らし、つながりをもったコミュニティを構築することなどです。私たちはこうした問題への彼女の声と力強いアドボカシー(社会的弱者の権利擁護)を思い出します。
私たちはジョーとともに今日の課題に立ち向かことはできませんが、ジョー・コックス財団はジョーの人生の指針となった価値観、彼女の共感力、人々との協調への信念、変化への強い意志に導かれています。私たちは、私たちを分断するものより、共通するものの方が多いと信じています。
この記念日は、彼女の人生と遺産を思い起こす機会であり、内省の瞬間でもあります。私たちは、ジョーが生涯をささげた心優しい社会の実現のために、常に彼女を模範として、活動を続けていきます。

The Jo Cox Foundationのツイート

ケンブリッジ大学は2018年から毎年、ジョーコックス記念特別講義を開き、YouTubeで公開している。

「The Great Get Together」はコックス氏の理念に触発された市民運動で、イギリス各地で地域社会につながりを増やす草の根活動に取り組んでいる。

コックス氏の誕生日(6月22日)に近い週末には毎年、イギリス各地で様々な地域交流イベントが開かれる。今年は6月24~26日に開催された。

More In Common

ブレンダン・コックス氏は最愛の妻の死の直後、こんなコメントを発表した。

夫ブレンダン・コックス氏のコメント

拙訳で抜粋する。

ジョーはより良き世界を信じて、生涯、ほとんどの人が燃え尽きてしまうほどのエネルギーと熱意をつぎ込んで、そのために戦った。
生きていれば彼女は二つのことを願うだろう。一つは、私たちの大切な二人の子どもが愛情で満たされていること。もう一つは彼女の命を奪った憎悪と我々が団結して戦うことだ。憎しみには信念も人種も宗教もなく、それは害悪しかもたらさない。
ジョーは人生を悔いてはいないだろう。日々を全力で生きたのだから。

ブレンダン・コックス氏のコメント

妻の死から1年後に夫ブレンダンはジョー・コックス氏の伝記を刊行した。

Amazon.ukより

タイトルはコックス氏が下院デビュー時のスピーチで用いた、彼女の政治姿勢を象徴するフレーズから取られている。

ジョー・コックス財団のサイトより

「私たちは、互いを分断するものより、はるかに多くの共通点をもっている」(ジョー・コックス)

6年前、EU離脱を巡って国が真っ二つに割れていた英国で起きた惨事は、政治家の遺志を引き継いで社会を癒そうとする波を生んだ。
コックス氏の遺産は、すぐに物事を解決する魔法の杖ではない。
社会を変えるには、一歩一歩、進むしかない。

2022年7月8日は、日本人にとって忘れられない日になった。
事件の余波で、我々の社会が抱える深い孤独と分断はより一層深まり、修復しがたいものとなりつつあるように見える。

それでも、我々は「いま、ここから」始めるしかない。

社会を揺るがす出来事の後には、大きな言葉、大きな身振りが幅をきかせ、「真実」や「物語」があふれる。
大きな絵に目を奪われると、分断に身がすくんでしまうかもしれない。
だが、「無敵の人」といった社会的弱者を異質分子としてカテゴライズする言葉は、問題の理解も解決も助けない。
宗教と政治の問題の検証は必要だが、憎悪を煽るような陰謀論めいた言説は混乱を深めるだけだろう。

世界をより良き場所にするのは、小さな言葉、小さな行動の積み重ねでしかない。
隣人に手を伸ばすこと、相手を理解しようとすること、誰も取り残されない、誰もが尊重される社会を作る営みを後押しすることでしか、孤独や孤立は癒せない。
それが簡単だとは言わない。
だが、不可能ではないはずだ。
ジョー・コックス氏が遺した言葉を信じるならば。

We have far more in common than that which devides us.
私たちは、互いを分断するものより、はるかに多くの共通点をもっている

ブレンダン・コックス氏のSNSより
(タイトル画像も同じ写真です)

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