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専業主婦で何が悪いか!

最初にお断りを。
私はこのテーマの専門家でも何でもありません。これは我が家の個別ケースです。タイトルに「ウチの奥様が」と補完してお読みください。

肩身の狭い専業主婦世帯

我が家は三姉妹と夫婦の5人家族で、奥様はずっと専業主婦だ。
一時期は高校の非常勤講師を務めていたし、本屋なんかでバイトをやってたこともあったが、27歳で長女が生まれてからはずっと専業主婦である(高校の同級生なので同い年です)。

日本ではとっくの昔に専業主婦世帯はマイノリティーである。

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(出所等はこちらのリンクを参照

私は「みんな好きにしたらエエがな」が信条だ。
女性の社会進出も、男女共同参画社会も、男性の育児休暇取得促進も、同性婚も、同性婚カップルの育児も、「専業主夫」の増加も、「個人の選択が縛られない」方向への社会の変化はすべて歓迎する。
みんな、好きにしたらエエがな。

なのだが。
その選択の1つでしかないはずなのに「専業主婦世帯」は妙に肩身が狭い。酒席などで「ウチは専業主婦です」と話すと、ビミョーな空気が流れる。「え…いまどき…?」みたいな感じの空気だ。
世慣れた人は「へえ」とか「そうなんですか」と流してくれるが、なかには「すごいですね!」といった(養えるオレ、凄い自慢かよ…)というニュアンスがにじむお言葉を頂戴する。「奥さんも仕事したいと思ってるんじゃないの~?」とか「『外』に出させない主義?」といったパターンもある。
相手に「ああ、ウチも専業でして」と言われると、ちょっとホッとする。「なんでホッとしなきゃいけねーんだよ」と思いながら。
PTAなどでも、働いているママさんが多いから「専業主婦です」とは言いにくいし、聞かれなければ言わないもののようだ。

単なる「分業」でしかない

退屈な結論で申し訳ないが、高井家が専業主婦世帯なのは、それぞれの得意・不得意を反映した単なる分業でしかない。
奥様は「内向的で経済・お金関係は苦手だけど家事や育児は好き」。
私は「外交的で経済関係は強いけどジッとしていられない」。
奥様は「正直・地道系」。
私は「ハッタリ・ザックリ系」。
奥様はアナログ志向、私はITデジタル志向という違いもある。
性格・スキルの違いから高井家は「ややこしいこと担当=私 めんどくさいこと担当=奥様」という大まかな分業体制をとっている。
「ややこしいこと」とは、

・仕事してお金を稼ぐ
・銀行や保険、不動産・ローン、金融資産の管理
・PC、スマホ、Wi-Fi機器などIT環境の整備
・家族旅行のツアーコンダクター
・水回りや電気系統などのトラブルシューティング

などなどである。
奥様が担当する「めんどくさいこと」は、

・炊事・洗濯・掃除など家事一般
・消耗品の管理
・学校・PTA関係の行事や手続き
・家族・家庭の健康・衛生管理

などなど。手間がかかり、反復作業を伴う、私の苦手分野だ。

「私は仕事オンリー・家事と育児は全部奥様」という完全分担ではない。
三姉妹が小さかったころは、私もおむつ替えやミルク、寝かしつけなどそれなりに子育てをやっていた。ただ、昔の記者稼業は拘束時間が長く、平日はほぼ家にいなかった。家事も子育てもほぼ奥様のワンオペで、私がやるのは幼稚園の「送り」ぐらいだった。

目標は「健康第一」

高井家の適材適所型分業の最大の目標は「健康」だ。

私は「苦手なことからは逃げる」タイプの人間なので、仕事をこなしたうえで苦手な家事をちゃんとやる自信がない。
おまけにフラフラ、ウロウロする癖がある。「彷徨ってないでもっと家事やれや」と言われても、こういう人間なんだからしょうがない。

一方の奥様は、一言でいえば「貨幣経済に向いていない」人だ。ビジネス・仕事だけでなく、消費や貯蓄などお金絡みは得意でも、好きでもない。
奥様は長女が生まれて数か月の、寝不足がたまって一番きつかったある日、疲れきったた顔で授乳しながら、こう言ったことがあった。

「あー、私、『これ』をやるために生まれてきたんだわ」

「三姉妹の育児が一段落したら地域の子育てボランティアとかやろうかな」という話には大賛成している。資本主義な世の中ですが、「貨幣経済の外」で社会に関わった方が良い人もいるのだ。

奥様の重要ミッションのひとつは三姉妹の健康管理だ。
三姉妹が小さい頃は、冬場なんて下手すると週3回ぐらいのペースで小児科やら歯医者やら耳鼻科やらのお世話になっていた。これは奥様がほぼフルカバーしてくれた。
病気の予防活動にも余念がない。長女と三女が受験生だった今年(2019年)も、おかげさまで受験が終わるまで三姉妹は風邪・インフルを回避できた。
(付記:次女の受験時も家庭内保健所長として活躍。下記note参照)

お弁当を含む食事も大きな役割だ。
昔も今も、三姉妹はお母さんの料理の大ファンである。お弁当に関しては、長女が幼稚園に上がって以降のこの15年間ほどの間、「弁当フリー」になった期間は2年しかない。次女と三女がバトンタッチで高校生になるので、向こう6年はお弁当が要る。

言わずもがなの補足を。
私は「専業主婦(主夫)じゃないと子供の健康管理は完璧にできない」などと言いたいのでははない。
高井家の場合、私も奥様も、仕事と家事・育児を両立する自信がない。
「チームとしてサステナブルな分業体制としている」だけの話だ。

リスキー?そうですね。

専業主婦(主夫)世帯には「稼ぎ手が1人」というリスクがある。実家が太いわけでもない我が家も例外ではない。
だが、このリスクは管理可能なものでもある。
「カネの問題は所詮、カネでカタがつく」のだ。
高井家の場合、以下の基本方針のもと、リスク管理プランを立ててきた。

①目標は「私が若死にしても、子どもは何とか大学まで行ける」
②「給料は明日にでも3割下がる」を前提に生活レベルをキープ
③子どもには小中高、できれば大学まで国公立を狙ってもらう

ミソは、「何とか」というレベル感である。
完璧なリスクヘッジには貯蓄や保険をかなり厚くする必要がある。
だが、遺族年金や母子家庭の支援制度などを考慮すると、サラリーマン家庭の場合、実は「何とか」の備えのハードルはそれほど高くない。
もちろん、私が今すぐ死んだら、奥様と子どもたちは苦労するだろう。国公立進学は「できれば」でなく、must になってしまうだろう。
でも、父親が死ぬような不幸に見舞われたら、人生というゲームがハードモードになるのはしょうがない。
貴族じゃないんだから。

なお、専業主婦の「離婚で収入が途絶える」というリスクについては詳細は割愛する。私が養育費を踏み倒すレベルのクズでなければ「路頭に迷う」ようなことはないのはちょっと調べればわかるとだけ付記しておこう。

放っておいてください…

唐突だが、私も奥様も、物欲が乏しく、お金のかからない人である。
私の一番の物欲に対象は本だが、図書館で借りるなりすれば新規投資額はすぐに大幅に圧縮できる。趣味のビリヤードも、やらなきゃ発狂するレベルの中毒でもない。
奥様も、本当にお金を使わない人である。
何が言いたいかというと、高井夫妻は出費を抑えてもそんなに幸福度は下がらないようなチームなのだ。
これもリスク管理の観点では見逃せない点だろう。
私の稼ぎとか「三姉妹全員が国公立」といった前提が変化したら、節約モードを発動してフローを調整すれば良い。

まとめると、高井家は「専業主婦世帯」がライフスタイルに合っていて、慎ましく暮らして子どもたちの人生の選択を極端に狭めないように備えもして、幸運にも家族一同、そこそこ健康を維持して平和に暮らしている。
だから、私は言いたい。

専業主婦で、何が悪いか!
「今どき」っぽくないかもしれんけど、放っておいてよ。

計算通りに「カツカツ」

ああ、聞こえる。
「専業でやっていけるなんて、恵まれてるからでしょ」という声が。
「ダンナ(私ですね)の稼ぎがそこそこ良くて、子どもたちが公立校で貫徹できる学力があって…自慢ですか?」という声が。

しかし、ちょっと待ってほしい。
確かに高井家は現状、悪くない状態にあるが、それはある「選択」に、幸運と若干の努力が加わった結果にすぎない。
そして、私は、この「選択」を左右するファクターの方に「専業主婦世帯は肩身が狭い」という不快な状態より、もっと強い不満を持っている。

高井家が選択したのは「子どもの数」である。

長女、次女がある程度大きくなったころ、何となく4人家族のペースもできて、高井家は「いい感じ」であった。
その頃、私のリスク管理プランは現状と少し違っていた。再掲する。

①目標は「私が急死しても、子どもは何とか大学まで行ける」
②「給料は明日にでも3割下がる」を前提に生活レベルをキープ
③子どもには小中高、できれば大学まで国公立を狙ってもらう

違いは③の部分だった。子どもが2人だったころは「私立でもOK」という前提で人生プランを練っていた。
でも、そのうち「3人いた方が楽しそうだな」という気がしてきたので、「ま、いいか」とお1人様追加し、③を「原則、国公立」に切り替えた。
お一人様追加は、単に「1人分、食費や学費が増える」という以上のリスクがある。
だから、三姉妹路線への切り替えに伴って、家計をあれこれ修正・調整をした。出費を抑えて貯蓄を増やしたり、「父ちゃんが死ぬリスク」への備えもちょっと厚くしたり、という感じだ。

幸運だったのは都立中高一貫校という選択肢の発見だった。「これだ!」と天啓をうけ、我が家独自の通称「お父さん問題」という独自の受験対策プログラムまで開発。その成果かは微妙だが、三姉妹はそろって同じ某都立に入ってくれて、上二人は大学も国立に合格した。親孝行な三姉妹だ。ナイス。

そんな感じで計画通りにきているわけだが、それでもけっこうカツカツである。マージンは取ってあるが、余裕綽々からは程遠い。
というより、逆算で「3人までギリいける」と選択したのだから、「カツカツなのは計算通り」なのだ。「太い実家を持たずに都内で『一馬力』で子ども3人」とはそういう選択だ。
我が家の各種条件が違っていたら、子どもを1人か2人にする、あるいは「子供なし」で行く、となっていただろう。
今の世の中、育児費用(特に教育費)の見込みから逆算して、子供の数を調整するしかないのだ。
それはつまり、仲良し三姉妹の誰か(もしくは全員)がこの世に居なかったかもしれない、という意味であり、考えるとちょっと「来る」ものがある。

子育てというギャンブル

このnoteのタイトルはパクリである。元ネタはこちらの赤川学さんの本。この本自体が機動戦士ガンダムのブライト艦長の名セリフ「殴ってなぜ悪いか!」から着想したそうだ。

パラパラ読み返すと、さすがに15年前の本なので、古さは否めない。
しかし、長女が幼稚園に上がったころ、この本を読んで、「男女共同参画の推進が少子化問題の処方箋になるという主張は欺瞞だ」という冷徹な分析と、いささか乱暴なタイトルに込められた、「個人の自由な選択が認められる社会の行き着く先が少子化なら、それは悪いことではない」という主張に強く共感した。
一方で、子育て支援について「子供をもたない」という選択をした人との間で有利・不利が出ない、ニュートラルな形で行われるべきだという主張には、「それは部分最適で『悪手』じゃないの?」と疑問を抱いた。

改めて指摘するまでもなく、今の日本の社会は子育てに優しくない。
特に共働き世帯にはきつい。季節柄、保育園の不足は言うに及ばずだろうし、いくらかマシになったとはいえ、産休・育休がきっちり取れない人も多いだろう。
シングル世帯となると、さらに難易度は上がるので、きっちり子育てされてる人たちは、ほんとに凄いと思う。尊敬します。

様々な制度をフルに活用できても、子育ては想定外のトラブルの連続で、そこに親の介護だ、人事異動だ、転勤だ、リストラだ、自分の病気だ、アレだ、コレだと、人生には次々とハードルが待っている。
個人レベルで大変なのに「まさか」という大企業が倒産したり、トランプが大統領になったり、イギリスがEUから離脱したりもする。
だから、「子どもをもつ」という選択は、リスキーで、エネルギーを消耗する選択だ。
ハッキリ言って、そろばん勘定だけなら、「損」だ。

それでも、ある人はそろばん勘定を超える喜びがあると思うから、子を生み、育てるのだろう。
そしてある人は、そろばん勘定が壁になり、「子どもはもてない」という判断を下すのだろう。
我が家は、そろばん勘定の末、「カツカツだけど、3人、行ってみよか!」というギャンブルに出た。
勝負の行方はまだ見えない。
巡航速度で三女が大学を修了する10年後ぐらいに、「まずまずプラン通り」の着地となる可能性は50%ぐらいかな、と見積もっている。異変があったら、ビリヤードに行く回数が減りそうだ。それで済めばいいが…。
ま、なんとかなるだろう。

高すぎる学費の本当のコスト

「子育て」というギャンブルのレートを上げる決定的な要素は教育費だ。
横川楓さんの『ミレニアル世代のお金のリアル』によると、「幼稚園からすべて私立」というコースでは子ども1人の学費が2200万円を超える。
3人なんて無理過ぎる。2人でも相当きついだろう。

『ミレニアル世代のお金のリアル』によると、公立でも大学の学費は260万円ほどかかる。諸経費抜きの学費のみでだ。これを奨学金と言う名のローンで工面した若者が苦しんでいるのはご存知の通り。親か、子ども自身か、誰が負担するかはともかく、今の大学の学費は高すぎる。

私は「教育はすべて無償」が理想だと考える。
機会の均等化と能力開発の最大化、世代を超えた経済格差の温存を避けるためにも、それがベストだ。
無論、大学の淘汰など「教育の質」の向上や職業訓練とのバランスなどを含む教育システム全体の改革が前提になる。そう簡単にできることではないのは先刻承知だ。
無償化が難しくとも、次善の策として、親の所得から子供の学費の控除を認めるとか、無利子の奨学金制度の拡充と就職後の返済額の税額控除など、合理的に負担を軽減する策はいろいろとあるはずだ。

「義務教育以降は自己の責任と選択だから公的支援にはなじまない」という考え方には「健全な『社会の担い手』を育てる投資は長期のリターンが高いから、大学に限らず、高校、専門学校、職業訓練コースを含めてもっと公的サポートを増やすべき」と申し上げたい。
人口減少の「引き潮」に抗する手段のひとつは、一人一人の働き手の生産性やクリエイティビティの向上=教育・職能水準の引き上げだろう。健全な中間層が社会の担い手として「厚み」をもたないと、政治と経済が不安定化して大きなツケが回ってくるのは、日本と世界の現状を見れば明らかだ。

育てるのは「子ども」じゃなくて「人間」だ

子育ては一義的には親の責務だ。
だが、それが家庭で完結しない現代にあって、教育は不可避的に社会との共同作業でもある。

そのなかで教育費、特に高等教育の経済的な負担は、私の目には、子の親、あるいは子ども自身に不当に重くかかっているように映る。
2022年には成人人口が18歳に引き下げられる。「いくつになっても、親にとって子どもは子ども」だけど、「成人」の学費の面倒を見るのは果たして「子育て」なのだろうか、という素朴な疑問が湧いてくる。
大学に入るころには、育てられているのは「子ども」ではなく、成人、つまり名実ともに次世代を担う市民なのだ。
もっと社会的サポートが厚くても良いのではないだろうか。
「子育て世帯」ではなく、本人への支援という形でできることはもっとないのか。

制度や社会の風向きはそう簡単には変わらないだろうし、そんなものに期待してリスク管理をするほど私は甘い人間ではない。
だから、高井家は、「健康第一」を目標に、三姉妹ができるだけ望む道を進めるようリスクをコントロールしつつ、でもたまにはプチ贅沢を楽しんだりしながら、専業主婦の奥様と私の二人三脚でチマチマと進んでいくつもりだ。
楽しいからやっているのだけれど、そんな調子で、けっこうな重荷を背負って「人間」を育てているのだから、温かく見守ってくださいな、というのは、そんな過分なお願いでもないだろう、と思うのだが、いかがでしょうか。

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