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アザと病と英語 『女帝 小池百合子』の違和感

話題のベストセラー『女帝 小池百合子』を読んだ。
あけすけに書けば、読んでいる最中はかなり不快で、読後1週間たってもモヤモヤした違和感が消えない。そんな読書になった。
あまり気が進まないのだが、気持ちの整理をかねて文章にしておく。
以下、敬称略です。

低評価には違和感なし

最初にはっきりさせておこう。
政治家・小池百合子に対する厳しい評価について、本書に異論はない。

その歩みを多少なりとも見てきたら、彼女を評価する人は少ないだろう。
夏場のスーツが苦手だったので、『クールビズ』の旗振り役になった功績は認めている。
それ以外、これといった実績は記憶になく、『女帝』でも描かれるようにパフォーマンスばかりに熱心な政治家という見方を私もとる。
都知事としての公約もほとんど実現していない。前回の選挙戦で不可能な空手形を乱発した時点でうんざりしたものだ。

人間として信用できない、という見立てにも同意する。
あちこちで書かれてるので、築地市場移転や拉致問題などいろんな場面での小池百合子の非情な言動については詳述しない。

ただ、彼女が政党と権力者を渡り歩いてきたことは、政治家としての低評価にはあまり関係ない。
政治家はそういう生き物だ。
彼女が生き残るには嗅覚と変わり身の早さは不可欠な才能だっただろうとも思う。

『女帝』の最大の売りであろう学歴詐称問題については、私の見解は「言っても詮無い」に尽きる。
カイロ大学が公式に認めている以上、「詐称」は成立しない。
いかにも中東らしい対応であり、「外」から突き崩すのはほぼ不可能だ。筋が悪い。

まとめると、「アンチ」というほど積極的ではないが、私は政治家としても、一人の人間としても、小池百合子を好ましく思っていない。都知事再選も支持しない。

それなのに、なぜアンチ小池本の『女帝』が不快だったのか。

最初の違和感は「アザ」

小池百合子の右頬には生まれつきのアザがある。3センチほどの、化粧無しでは目立つものだという。
最初に『女帝』で引っかかったのは、このアザについての記述だ。

顔に目立つアザを持って生まれ育てば、人格形成に何らかの影響を及ぼすことは想像に難くない。
昭和20~30年代に子ども時代を過ごした女性ともなれば、なおさらだ。
『女帝』でも政界入り直後のインタビューから、「すべてのエネルギーのもと」「コンプレックスではなかったけれど、でもそれがあるからこんなに頑張って来れたと思う」という小池百合子自身の言葉を紹介している。

不快なのは、このアザについて著者が執拗に証言を並べ、その影響で人格が歪んだという「見立て」を披露していることだ。

同級生は、百合子を明るい少女として記憶していた。
「アザのことなんか、まったく気にしていないし、それで百合子ちゃんをイジメるような子もいなかった。いつも百合子ちゃんはすごく前向きだった」
この言葉を聞いた時、私は小池がいかに孤独な状況にあったかを察した。アザをまったく気にしていない。そんなことがあるだろうか。気にしていないように振舞っていただけだろう。

(『女帝』第一章 「芦屋令嬢」 p35)

この証言から「孤独」を察するのは、相当の予断をもった行為だ。同級生の内面は、著者の想像でしかない。
「察した」「だろうか」「だろう」というあやふやな語尾を並べてまで印象操作している感は否めず、このあたりで早々に「この本は要注意だ」と感じた。

さらに疑問なのは同年代の従妹・咲子との対比だ。

運命はさらに残酷だった。
(中略)
よりによって、咲子は子どもの頃から、絵から抜け出したように美しかった。瓜実顔で色は白く、鼻筋が通っている。何よりも切れ長な大きな眼をしていた。
百合子とは、まったく似ていなかった。
(中略)
咲子を通じて、百合子は美貌に恵まれた少女が、どれだけ周囲に愛され、幸運を手に入れるかを理解したのではないだろうか。

(『女帝』第一章「芦屋令嬢」p29)

顔のアザについて、小池百合子は前述のインタビュー以外では多くを語っていないという。
私には、多くを語らない彼女が、幼いころからこのアザとどう向き合ってきたのか、想像だけで踏み込んで書いてよい領域だとは思えない。
美しい従妹と「まったく似ていなかった」ことを「運命はさらに残酷」と断定して、内面を「ではないだろうか」と推測して書く勇気は、私にはない。

『女帝』はこうした「ではないだろうか」といった表現が頻出する。
しかも人間性の本質にかかわるような部分で「見立て」が乱発される。
憶測や想像を断定調の「地の文」で書く、私の基準では明確に「アウト」な部分も多い。

著者は小池百合子本人にインタビューできていない。
だが、取材を拒否されたからといって、何を書いても良いわけではない。

この従妹・咲子との対比は第四章まで続く。

キャスターになり、国会議員になった。階段を一歩、あがるごとに彼女は過去と決別し、過去を塗り替えていった。劣等感に苛まれた過去と。
象徴的な出来事があった。小池が政界入りしてから間もなくのこと、従妹の咲子が亡くなったのだ。
まだ三十代の若さで病を得て、異国に没したようである。
同じ一族に生まれ、ネガとポジのようであった関係に終止符が打たれたのだ。小池が十分に活躍を見せつける、その前に。咲子の早すぎる死を、小池は、どう受けとめたのだろう。

(『女帝』第四章 政界のチアリーダー p179)

これは「伏線回収」のつもりだろうか。
従妹の死が何を「象徴」していると言いたいのかは、分かる。
だが、この下り、あるいはそもそもこの従妹との対比は、必要なのか。

「劣等感に苛まれた過去」「十分に活躍を見せつける」といった悪意に満ちた言葉遣いで、想像力と「筆力」だけで人の死とそれに対する他人の思いを出版物に載せてしまうのは、それこそ私の想像の外にある行為だ。
ここまで前のめりなのに「異国に没したようである」と曖昧な書きぶりになっているのも不可解だ。

アザについて最も疑問なのは第六章の最後の「伏線回収」だ。
2016年の都知事選は自民党が推す増田寛也と小池百合子の事実上の一騎打ちとなった。
この時、自民側の決起集会で石原慎太郎は「大年増の厚化粧」と小池をこき下ろし、その発言は強い批判を浴びた。

小池はこの時を、待っていたのかもしれない。彼女の人生において、ずっと。そして、ついにその日を、その時を、迎えたのだ。生まれた時に与えられた過酷な運命。その宿命に打ち勝つ瞬間を、ようやく掴んだのだった。
テレビカメラを見据えて彼女は語り出した。自分の右頬を指さして。
「実は私……、この右頬に生まれた時から、アザがあるんです。それを化粧で隠している。だから、どうしても化粧が濃くなってしまうんです……。石原さんはそれをご存知でないのでしょう」
積極的には語らなかった事実。これまで使わずに残してきた秘密。化粧の下の素顔。
彼女はこれまで嘘によって人生を切り拓いてきた。だが、彼女は都知事になれるかどうかという人生最大の賭けに出て、嘘ではなく、ついに事実を切り札にする機会を得たのだった。

(『女帝』第六章 復讐 p319)

説明は不要だろう。「よくぞここまで」という悪意に満ちた筆運びだ。
しかも、その直後にはこんな下りがある。

容色が衰えて男に嘲られる中高年女性たちは自分を小池に投影し、緑に身を染めて街頭演説に駆け付けると小池の名を絶叫した。
誰もが気づいていなかった。かつては、小池自身も男たちと一緒に、嘲る側にいたということを。
(中略)
自身が若さを失い男性を惹きつけられなくなって、路線を巧みに切り替えたのである。六十代半ばとなった彼女は、自ら進んで「オバサン」を演じたのだ。緑のハチマキを巻き、男にいじめられ、蔑まれる女性を演じ、「オバサン」を味方につけたのだった。

(『女帝』第六章 復讐 p319~320)

いやはや。

あまりに軽い「病」の描写

「女性の評伝を書くことを作家として、もっぱらとし、男性優位の日本社会の中で近代を生きた女性たちの煩悶を、無念を、希望を綴ってきた」(『女帝』終章 小池百合子という深淵)と自身を位置づける著者による「評伝」は、小池百合子の「女」の側面に強い関心を寄せている。

それは一つの手法だろう。
ただし、バランスを欠けば、その切り口そのものに疑問符がついてしまう。

私が「これはない」と思ったのは、子宮筋腫について書かれた部分だ。
小池百合子は45歳のとき、子宮筋腫の手術で入院している。

彼女は子宮筋腫だと病名を明らかにし、病室にメディアを招くと取材を受けた。「子宮を失う女の哀しみ」を滔々と語り、病床にある自分の写真を撮影させた。
細川とも小沢とも、男女関係だと噂を立てられ、「色気でのし上がっていく」と痛烈な陰口を叩かれていた。女性票がもうひとつ伸びないのは、主婦層を味方につけられないからだ、ともいわれていた。
(中略)
美しさや若さや独身であることが一時期はプラスに働いたとしても、ある時期からはマイナスとなる。独身でいると男性を渡り歩いているいった悪い噂をたてられやすい。それを打ち消すには、結婚するか、女としての魅力を完全に封殺するよりない。だが、容姿を売り物にしてきた彼女にそれはできない。
(中略)
小池は子宮筋腫という病を得た時、これを広く公表して、自らを病ゆえに子どもを持つという最大の夢を持てなかった女だと定義づけし、主婦層への接近を試みたのではないだろうか。
小池は病後、ことあるごとに、「私は子どもを持ちたかったが、子宮筋腫になり諦めなくてはならなかった」と語るようになる。しかし、彼女が子宮筋腫の手術を受けたのは、四十六歳の誕生日を迎える直前のことである。

(『女帝』第四章 政界のチアリーダー p211)

書き写すだけで憂鬱になる。細川は細川護熙、小沢は小沢一郎を指す。

この書き方に問題がないと感じる方もいるかもしれない。
だが、この箇所は、私にとって許容範囲を大きく超えている。
ここを読んで以降、『女帝』で初めて知った情報や価値判断、匿名のコメントなどはすべて「留保付きの参考情報」として扱うことにした。
著者の主観が大量に挿入された「物語」として本書に向き合った。

センシティブな病気について文章を書くのは、本人に取材ができている時でさえ、神経を使う作業だ。

さきほどの引用箇所には「滔々と語り」「容姿を売り物にしてきた彼女」「ことあるごとに」と気になる表現は多い。

最も大きな傷はこの部分だ。

「自らを病ゆえに子どもを持つという最大の夢を持てなかった女だと定義づけし、主婦層への接近を試みたのではないだろうか」

この文末は、何か。
これは「ではないだろうか」などという調子で書いてよい話ではない。

「しかし、彼女が子宮筋腫の手術を受けたのは、四十六歳の誕生日を迎える直前のことである」

だからどうだと言うのだ。

取材を進めるうち、著者には小池百合子に対するネガティブな思いが蓄積していったことだろう。
一方で終章にあるように、小池百合子が生きた時代、歩んだ人生に、「他の良き選択肢があったのか」という問いも膨らんでいっただろう。

この2つを本書は消化しきれていないように思う。
私は著者と面識はないので、これは私の「印象」でしかないのをお断りしておく。

これはノンフィクションなのか?

「あとがき」は「ノンフィクション作家は、常に二つの罪を背負う」と書き出されている。ひとつは書くこと、もうひとつは書かぬことの罪だという。
そして「後者の罪を重く考え、私は本書を執筆した」という。
そのうえで「ノンフィクション作品における著者の役割は、そう大きなものではないと、私は考えている」と記す。
主役は資料や証言者、つまりファクトであり、それが出版物として世に出るのには多くの人々の助けが要る、という趣旨だ。

私の目には、ここでも著者は自家撞着を起こしているように映る。
「書かぬことの罪」を自覚した書き手の役割が「そう大きなものではない」と言い得るのは、生成物がファクトのみに、少なくともほとんどファクトのみに支えられているのが条件になる。
ここまで主観に満ちた文体で、「アンチ小池」サイドに偏った証言によって執筆すれば、その条件は満たされない。

『女帝』では、著者は「そう大きなものではない」という言葉にそぐわない役割を果たしている。
これは、ノンフィクションではなく、プロパガンダと言われても仕方ない書き方だ。都知事選直前というタイミングを考えれば、なおさらだ。
大量の取材と資料の読みこみという労力を思えば、それは非常に残念な結果だと私は思う。

巻舌調の英語という揶揄

『女帝』の本質ではないが、個人的に気になった点を付記する。
小池百合子の英語についての記述だ。

最近、たまたまコロナ関連情報を都知事が英語でライブ配信するのを見る機会があった。
小池百合子の英語は、ノンネイティブとしては立派なものだ。
日本人の苦手なR音などもそれなりにクリアで、フレーズやセンテンスの区切り、アクセントの置き方も申し分ない。
英語力を披露するパフォーマンスという側面がゼロだとは言わない。
だが、内容もファクトを簡潔に伝えるもので、日本語を解さない外国人にとって非常に有益な情報発信だったと思う。

長期の英語圏への留学経験なしで、あそこまで「使える英語」を身に着けたのは、相当の努力と適性が必要だろう。
私自身、ドメスティックな人間で、30歳を過ぎてから英会話に本腰を入れた人間なので、その苦労はよく分かる。

小池百合子は甲南女子中学時代から英語が得意だった。
『女帝』にも「とにかく英語がペラペラなんです。スピーチコンテストで優勝したんですよ。すっごく綺麗な発音でした。いつ、どこで、あんなに綺麗な発音覚えたのかしらって、皆、言ってました」という同級生の証言がある。小池自身、「とにかく私は英語少女でした」と語っているという。
この直後の文章が、こうだ。

巻き舌の英語を同級生たちは、手放しでほめてくれた。この快感の記憶を、成功体験を、彼女は生涯、引きずることになる。
(『女帝』第一章 「芦屋令嬢」p43)

小池百合子がのちに、ライス米国務長官との共同記者会見で、稚拙なジョークを英語で飛ばして失笑を買ったのは事実だ。

だが、「綺麗な発音」という証言を、「巻き舌の英語」と否定的な表現に変換する必要はあるのか。
努力して身につけた語学力まで、「生涯、引きずる」宿痾のように書く必要があるのか。

カタカナ語を多用するという指摘は、最近だと「東京アラート」が好例で、私も好ましくないとは思う。
しかし、第六章の以下の箇所は、いかがなものか。

「(略)これまでの古い体制、『アンシャン・レジーム』の総称として使わせて頂きました」
小池は都議会でもカタカナ語を多用した。英語を使える自分を誇示しようとする、だから、ことさらな巻舌調になる。例えばABCのCを”スィー"とするような。

(『女帝』第六章 復讐 p329)

日本ではかつて、英語の授業などで「正しい発音」をする人間を揶揄する悪しき習慣があった。いまだにそうした風潮は残り、帰国子女などが「ジャパニーズ・イングリッシュ」風の発音にチューニングするという話も聞く。

ABCのCを「she」のように発音するような、「ことさらな巻舌調」でない英語の方が望ましい、と著者は考えているのだろうか。
おそらくそうではないだろう。

英語力についての記述は全般に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の類いで、『女帝』という本の全体のトーンを象徴している。
私自身がここで言う「巻舌調」を身に着けたいと努めて、そんな発音の英語を使うので、「ことさらな毒舌調」がことさら神経にさわるのかもしれない。

なお、言わずもがなだが、「アンシャン・レジーム」はフランス語であって、「英語を使える自分を誇示」することとは関係ない。
日本語の中で使っても嫌味ではない程度には定着した用語だし、「古い体制」と言い添えた上での発言なら、文句をつけられる筋合いはなかろう。

誰もこんな風に書かれるべきではない

思いの外、長い文章になってしまった。
気になる箇所はまだいくらでもあるが、キリがないのでこの辺りで締めとしよう。

『女帝』は大きな反響を呼んでいる。特に「アンチ小池」からは喝采をもって迎えられ、500件を超えるAmazonのレビューも8割が「5つ星」だ。
本書を支持する人々には、リベラルな価値観から小池百合子という政治家に反感を持っている層も多いだろう。
実際、何人かのリベラルな「論客」がツイッター上で『女帝』を絶賛しているのを見かけた。

私もかなりリベラル志向なので、小池百合子には共感できない。
だが、同時にリベラルな価値観、あるいは「巻舌調」でいえばフェアネスの観点から、『女帝』には、極めて強い違和感を感じた。

「敵が何でもアリなのだから、こちらも何でもアリで行く」という構えは、それこそ政治家、いや「政治屋」や、活動家のものだろう。

たとえ受け入れがたい信条を持ち、権力志向丸出しで生きてきた政治家であろうと、生まれつきの身体的な特徴や病気、それに関わる内面について、こんな書かれ方をしてよいわけがない。
右も左も関係なく、何人たりとも、こんな風に書かれてよいはずがない。

私は、1人のリベラルな人間として、そう信じている。

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