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「大衆」は変わらない 『ゲッベルスと私』

本稿は光文社のサイト「本がすき。」に12月17日に寄稿したレビューです。編集部のご厚意でnoteに転載することといたしました。

初めはあまりに淡々とした語り口に違和感を覚える。
だが、読み進むうちに、読者は「語り手と自分に、どんな差があるというのだろうか」という問いを突き付けられ、知らず知らずのうちに鏡をのぞきこむような思いでページをめくらされる。
『ゲッベルスと私』は、数あるナチスドイツ関連の書のなかでも、特異な読後感を残す異色作だ。

『ゲッベルスと私ーーナチ宣伝相秘書の独白』紀伊國屋書店
ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・D. ハンゼン /著
石田勇治/監修 森内薫+赤坂桃子/翻訳

ナチスのプロパガンダを担った伝説的な宣伝相ゲッベルスの近くに仕えたブルンヒルデ・ポムゼルには、拍子抜けするほど罪の意識はない。
当時は若く、恋愛や友人との交友の方が大事で、政治には無関心。育ちが良く、第一次大戦の敗戦後の荒廃期ですらさほど生活に困らなかった彼女は、報酬が良く、建物も壮麗なゲッベルスのオフィス勤めに満足する。
ポムゼルが語るナチス支配下での日常は、類型的すぎるほど「凡人」のものだ。

「『凡人』こそが大悪をなし得る」という視点は、ハンナ・アーレントがホロコーストに関与したナチス幹部アイヒマンを「ただの凡庸な役人」と喝破して以来、目新しいものではない。
だが、本作には、アイヒマン裁判を傍聴者として冷徹に分析してみせたアーレントの知性とは別の迫力、当事者の語りからしか生まれないリアリティーがあふれている。

ポムゼルは愚かな人物ではない。
記憶があいまいだと弁明を重ねながら、ユダヤ人の友人の運命や、強制収容所の存在とそこに送り込まれた人々の運命、ナチス体制に当時抱いていた違和感や疑問について重い口を開き、その観察眼や考察からは人並み以上の知性を感じさせる。

「私はただの下っ端で、ナチスの犯した罪に責任はない」という認識は、自己防衛本能のための正当化という面もあるだろう。
それでも、後知恵で「ユダヤ人のためにもっとできたことがあったはずだ」と断罪する人々を一刀両断する言葉には、「現場」にいた人間にしか吐けない実感がこもる。

「でも、彼らもきっと同じことをしていた。(中略)私たち自身がみな、巨大な強制収容所の中にいたのよ。ヒトラーが権力を握ったあとでは、すべてがもう遅かった」

ポムゼルはこうも語る。

「あのころと似た無関心は、今の世の中にも存在する。(中略)シリアのニュースを見たからといって、人々は生活を変えない。生きるとはそんなものだと私は思う。すべてが渾然一体になっているのが、生きるということなのだと」

80年前の欧州では、一人一人の政治的無関心が人類史上未曽有の悲劇を生んだ。ポピュリズムが席巻する現代も、「大衆」の本質は変わらない。映画版の評価も高い。未見なので、これから見てみるつもりだ。

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