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羽黒にて山伏修行 〜思考をすて、体で感じる〜

先週末、山形県鶴岡市羽黒に山伏修行に参加してきた(サムネイルは、羽黒町観光協会HPより)。

数年前から何名かの知人から素晴らしいよって聞いていて、最近自分でも山を走るようになり山で修行する山伏が気になっていた。

そして、最近『日本列島回復論』を読み、"山水郷"という概念を知った。大きな平野に人々が大きな都市を築くようになったのは、治水技術が進んで江戸時代以降であり、古より人々は、水やエネルギーになる木々が豊かにある山の麓に住んでいたことを知る。そして、その中でも特に、霊峰と呼ばれるような山々は優れた山水郷であると共に、その霊峰自体が山岳信仰の場所となっていたという。

今回いった羽黒は、まさに霊峰月山含む出羽三山の麓であり、今でも山伏の伝統が引き継がれている場所である。

何かどうしても惹かれるものがあり、導かれるように参加してきた。

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参加させていただいたのは、大聖坊山伏修行。大聖坊は星野先達が13代目当主を勤める宿坊。(http://daishobo.jp/

今年はコロナの影響もあり、通常より短い一泊二日での修行ということ。

詳細な工程は明かさないことになっているようなので、印象に残ったことだけを備忘的に。


デジタルデトックスの極みと、一言もしゃべらない時間

修行中は白装束で行動し、一切の私語は慎まなければならない。当然スマホなどのデジタル機器は一切使ってはならず、完全なるデジタルデトックス。日々生きている中で最近は常に情報多寡な状態なので、それだけでも貴重な経験。


思考を手放し、体が感じるままに

初日は、宿坊にて始まりの儀式を執り行い、その後三山神社への参拝行脚。大木などの自然や、道中の各神社の前でお祈り。先達のほら吹きから始まり、般若心経や祝詞をあげる。

自分もはじめは心の中で音をなぞったり、形だけ読んでみるだけだったが、だんだんと気持ちが言葉に沿ってくる。不思議な感じになる。
三山拝詞が民謡みたいで心地よかった。

そして何回も祈っていると、木や建物などの形を目で見るのではなく、そこにあるエネルギーを意識するようになった気がする。

行脚の最初の方は、誰とも話さないこともあり、自分の中でいろいろな考えがどんどん湧いてきて、それで頭がいっぱいになっていった。仕事の悩みや人のことだったり諸々

ただ、先達がつけている鈴の音の中で、一歩一歩歩んでいくと、だんだんと色々な雑念が消え、単に歩くという感覚になっていった。

そして、そして、単に体が感じるだけになっていく。

参拝を終えて、夕方宿坊に帰ってくる。そこで1時間くらい(時計はないのでわからないのだが)休憩があったのだが、真っ暗な部屋で10人弱の男性が、誰も喋らず各々に黄昏たり、休んだり。考えたり、まどろんだり、なんか夢なのか現実なのかわからなくなるような、不思議な時間。


夜の行脚も雨の中をすすむ。帰り道、一人だったら怖いような道もみんなで歩むことで全然怖さを感じない。

何か一行が神聖なエネルギーの場になったような感じだった。

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凍えるような滝行と頭とは裏腹な体

翌日は朝4時半くらいに起きて、滝行に向かう。神領のため撮影は禁止。力強く水が湧き出る山。緑が力強い。

滝の水は、雪解け水。先達の"全員一辺に飛び込め"という掛け声のもと、飛び込む。

最初は冷たすぎて、痛い感じだった。めっちゃ早くにおきて向かったので、まだ体が眠っていることもあり、体がびっくりする。

でもずっと入っていると麻痺してくるのか、つらくなくなっていく。頭では早く出たいのに、体ではまだここにいたいと感じる。軽くトランス状態。

あがったタイミングはヒリヒリと痛かったが、そのあとは体がポカポカしてくる。足はガクガクしているが、なぜか心地よい。


穢れと自らのエゴ

禊とは、つみ・穢れを落とすこと。つみとは本質に被さったもの。それは人間の意識だったりするらしい。

滝行の間、余計な意識は吹っ飛び、体が感じ、そのままに動いていた。


先達から言われた言葉はどれもハッとさせられるものばかりだったが、特に心に残っているのが

"日本人は"場"に参加することで学んできた。今はみんな頭で考えようとしすぎている"

という言葉。

腑に落ちるなどと言うように、本来日本人は体で感じて、いろいろな物事を決めたり、学んだりしてきた民族。"場"と言うのは人の集まりと言うことだけではなく、自然の中の場も含む。

ある意味修験道はそれを実践してきた"道"。

明治になって西洋からの学問が入ってくると、体ではなく、頭で考えるようになってきた。

個人的にも、最近コロナの影響でほとんど家から出れず、ひたすらテレカンばっかり繰り返していると、情報だけを頼りにいろいろ考えていて、そうするとネガティブな思考になったり、考えがグルグルしてものが進まないなと言う感覚があった。

もっといろいろな場に実際に出向いて、そこで感じることから決めれば良いと言う先達の言葉は非常にみにしみた。


また先達はこうも言っていた。

"場に参加すれば、縁ができる。縁をつないでいけば、生きる上で必要な道は開ける"

とにかく気になった"場"に参加すれば、そこからまた新たな繋がりが生まれ、それによって人生なんとかなると言う

頭でっかちに、"これからどうしよう"、"これも決めなきゃ"などと悩んでいた自分には、肩の力を抜ける、そんなに力んで生きなくてもいいんだと、安心を与えてくれる言葉だった。

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自然と共に生きる

"自然と共に生きる"という言葉は、何回も言葉としては目にしてきたものが、今回はそれを体で感じられた。

雪解け水が湧く場所にいき、そこから流れ出る川を感じる。その川の恵みで育まれ青々と茂る木々を感じ、その下流では田畑が作物が豊かに作られるのを目の当たりにする。

山があってこそ、水や食べ物があり、本当に、人間は、自然に生かされているのだなと感じた。

そして、古よりこの地の人々はそれに感謝し、祈りを捧げてきたことが、今にも繋がれてきている慣習の中で感じられた。


コロナの影響もあり、大都市で生きることの不安や疑問を感じる中で、体で自然を感じ、古来からの日本人の自然への向き合い方や死生観を感じることができた今回の旅は本当にみのりあるものだった。

さらに興味がわいた修験道に関してももっと調べつつ、また山に入り自らの体で自然を感じていきたい。



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