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薛暮橋 (1904-2005)

百度百科(全訳)

薛暮桥(シュエ・ムーチアオ 1904年10月25日ー2005年7月22日) 元の名前は雨林、江蘇無錫の人。1927年中国共産党に加入。1938年から1942年まで新四軍で働く。新四軍教導総隊訓練処副処長。通俗著作『政治経済学』教科書を書いたが、それは新四軍幹部の育成(培训)教材となった。中華人民共和国が成立後、政務院財政経済委員会秘書長と私営企業局局長とを兼任したほか、国家統計局局長、国家計画委員会副主任、全国物価委員会主任、国務院経済研究所中心総幹事(を歴任した)。1955年に中国科学院哲学社会科学部委員に選ばれた。

中国の計画経済の創造者から批判者へ。経済学者の吳敬璉はかつてこう評している。薛暮橋は1930年代から経済学の研究をはじめ、中間で計画経済を確信することを経験、のちには改革を極力主張した、市場経済の道の長い過程を歩いた。

薛暮橋著の《中国社会主義経済問題研究》は《中国経済体制改革の啓蒙教材》と称されている。この本はのちに1000万冊を売り上げた。これは牛棚(ニウポン)での思索が結実したものだ。
牛棚で牛という表現は人でない扱いになったことを示す。文革期、思想的に問題があるされた人々は牛棚に入れられた。実際に牛舎ではないが。于光遠は自身が入れられた牛棚について15平方ほどのところに6人が入れられた。そこは床がない。地面の上に布団(褥子)をひいて寝るしかない。各人に小さな机があるがスツール(凳子)はない。とその屈辱的な扱いを描写している。于光遠《“文革”中的我》2011年, 35-37(手元にある本書は1993年に出版されたものの再版)

人物簡介

薛暮桥。元の名前は雨林。江蘇無錫の人。現代中国の傑出した経済学者。中国経済学界の権威者(泰斗:徳が高く仰ぎ見られる人のたとえ 訳注)。第一回中国経済学賞を受賞。市場経済の開拓者(拓荒者)。新中国の初代の社会主義経済学者であり高級経済官僚の一人。1927年に中国共産党に加入。1938年から1942年新四軍にて働く。新四軍の教導総隊訓練処副処長。著書として『中国農村経済常識』『中国社会主義経済問題研究』『我が国の物価と貨幣問題研究』『客観経済規律に照らした管理経済』『当面の我が国経済の若干の問題』などがある。自ら中国の2つの経済体制建設に関与した中国の経済学者薛暮桥は2005年7月22日に世を去った。中国の現存の経済学者のなかで中国の経済体制の発生にこのような影響を与えた者はいない。中国のもっとも重要な二つの経済体制の建設段階において、彼はいずれについても自らその設計に加わったのである(中國的現存的經濟學家裏,再沒有人有他對中國經濟體制產生這樣的影響:在中國最重要的兩個經濟體制建設階段,他都曾親身參與設計。)。

生平介紹
青少年時期
 1904年10月25日。薛暮橋は江蘇省無錫県の礼社鎮の没落した地主の家に生まれた。15歳のある日、省立第二師範の初二にあった薛暮橋に悪い情報(噩耗)が届いた。体面をとても気にする父が50歳になる数日前に貸主の債務返済の脅しを恐れて、首つり自殺したというのだ。それから半年後、薛暮橋は杭州鉄路の停車場で、練習生として会計を学んでいる。薛暮橋のかつての秘書で現在中国保監會副主席の李克×は薛暮橋の記憶力が底なしであることに驚いている。解放区そして新中国の経済統計数値が、薛老の口からスラスラでてきた。

    20歳の時、薛暮橋は滬抗鉄路の駅の中で最も若い駅長となった。鉄路の労働は彼がたくさんの労働者を知ること、軍閥の国や民への災いを目撃させることにつながり、ついに鉄路労働運動に身を投ずることにつながった。1927年に薛暮橋は中国共産党に加入した。四一二政変(1927年4月12日以降の蒋介石による清党の動きを指す。このとき、共産党側も武装解除命令に応じず抵抗を命ずるなど事態を拡大したように見える。結果的に多数の共産党員が捕縛され、主たる人たちは処刑された。)のあと、杭州で逮捕され入獄した。薛暮橋は時の中共浙江省委員会書記の張秋人と甲監5号で同室となった。死刑判決を控えて、張はなお毎日五六時間読書をしていた。ある日、張秋人は本を投げて言った。「なんでまだ俺を殺さないんだ」薛暮橋はとても驚いた。「もうすぐ死ぬと分かっているのに、なんで毎日まだ本を読むのですか?」。張秋人は答えた。「我々が一日生きるのは、一日革命活動をするためだ。牢屋では革命活動はできない。だから毎日本を読むんだ(それが今できる革命活動だ。 訳注)」この話は薛暮橋に衝撃を与えた。回想録の中で彼は書いている。「これは生涯忘れがたい諭(さとし 教誨)であり、私が一生忘れなかった教え(教導)である」。このときから、薛暮橋は,正業(いまするべき仕事のこと 訳注)以外は気に留めない(無心旁騖)習慣をやしなった。監獄の中、閉ざされた部屋のなかで、薛暮橋はほかに誰も人がいないかのように、本の中に深く沈潜した。
 3年の監獄生活の中で、薛暮橋は世界語、世界通史を学んだ。もっとも多く読んだのは西欧とソ連の学者が書いた政治経済学の著作だった。これは彼がのちに中国経済学界の泰斗となる基礎を築くことになった。
 監獄大学について 

抗戦時期
 薛暮橋は、貨幣の価値は貨幣の発行数量によって決定され、それが含有する金の量では左右されないとの、独自の観点を提起した。出獄後まもなく、薛暮橋は幸運にも経済学を啓蒙する老師陳翰笙(チェン・ハンシェン)とであった。陳翰笙は、古典を引用して典拠とすることに反対し、調査研究をしないことに反対し、理論をただ話すこと(空談)に反対し、田野調査を重視した。一か月の調査のあと、薛暮橋は最初の経済学調査報告「江南農村の衰落の記録(縮影)」を発表した。文章は故郷礼社鎮の薛姓の家族の経済状況の編成を主題(主線)として、農村封建経済破産の必然を示している。間もなく論文は翻訳され、日本に達した。抗戦前夜、薛暮橋は『中国農村』の編集責任者として、大量の調査報告と論文を掲載、農村改良主義を批判、土地制度変革(農村の土地所有関係の変革 訳注)の必要性を論証した。
 抗戦爆発後、薛暮橋は新四軍に参加し、軍部の教導する総隊政治教官を担任した。皖南事變を経験したあと、彼は山東の抗日根拠地での経済工作に転身した。薛暮橋が直面した難題はつぎのようなものだった。国民党政府が法幣を発行し(1934年に米国が銀買上げ法を制定したことで銀本位国として金融恐慌のリスクに直面した中華民国は1935年銀の国有化と不換紙幣法幣の発行を突如決定した。ここで薛暮橋が直面した、紙幣はいずれも不換紙幣である。)、日偽政府(南京の汪兆銘政権のこと)が偽貨幣を発行するという圧力のもと、根拠地で発行される抵抗紙幣は劣勢で、物価はとても不安定だった(急劇震蕩)。
  薛暮橋の研究はつぎにように書いている。物価を安定する唯一の方法は、法幣を駆逐し、抵抗紙幣で市場を独占させ、ほどなく抵抗紙幣と法幣の比価(交換比率 訳注)をもともとの1:2から1:6に変化させたことであった。法幣をため込んでいた地主たちは次々に法幣を投げ出し、抵抗紙幣が市場を占拠し、物価は大幅に下落した。物価の継続的下落を防止するため、根拠地では抵抗紙幣の発行量がふやされ、物資の買上げが行われて、物価の安定が図られた。(なお中華ソビエトでは、国民党の紙幣の偽造を行っていたことも知られている。以下を参照。胡名義《赤囯保密》金城出版社,2012年,147-148)
   薛暮橋は、貨幣の価値は貨幣の発行数量によって決定され、それが含有する金の量では左右されないとの、独自の観点を提起した(さきほども述べたように、当時は紙幣が法貨でかつ不換通貨なので含有する金の量の議論はおかしい。ただデフレ防止のように通貨発行量を増やしたというお話は興味深い 訳注)。解放区は金も外国為替もなかった。貨幣価値と物価の安定はいかにして保たれるか?西欧の経済学者はこれは不可能だと考えた。30年後世界各国は金本位制を廃止し、貨幣価値は貨幣発行量により決定される、というのはすでに誰もが認める原理になっている。

(このあと新中国の成立から文革に至る時期の 薛暮橋に関する記述がなぜか脱落している。別に入手している以下の年譜により補足する。)
薛暮橋同志学術成果回顧 http://finance.sina.com.cn 2005年7月27日
2015年6月15日閲覧
1949年10月 中華人民共和国成立 政務院財政経済委員会委員 秘書長 兼私営企業局局長 財政経済委員会の陳雲を助けて物価の安定 私営工商業改造などに取り組む
1951年2月 業務繁多により神経衰弱となり入院 
1952年秋 国家計画委員会委員 国家統計局長
1953年3月 中国経済と価値法則に関する論文を発表
1954年2月 国家計画委員会副主任
1955年冬 訪ソ団に同行して訪ソ
1957年2月 計画経済と価値規律に関する論文を発表
  ⇒ 計画経済と価値規律の問題を最初に提起
1958年2月 中央財経指導小組秘書長 国家計画委員会 国家統計局より離れる
1959年 反右派闘争の高まりの中で書いた論文が次々に批判される
1959年11月 劉少奇の海南島での読書会に参加 ソ連政治経済学教科書第三版を読む。⇒ 劉少奇同志の思い出
1961年10月 国家計画委員会副主任に復帰
1962年5月 新設の全国物価委員会主任
1965年5月 物価安定と貨幣制度に関する論文発表
1966年 ”文化大革命”の開始とともに”走資派”、”経済学反動学術権威”などとして批判される
1968年3月 牛棚へ 
1969年夏 牛棚から釈放
1969年12月 五七幹校で労働改造へ
1972年夏 国家計画委員会党組織が解放を決定するも妨害 再度五七幹校へ
1973年夏 高齢体弱を理由に北京に戻る
1975年9月 鄧小平の復帰により解放 国家計画委員会経済研究所顧問
1976年10月6日 四人組の排除
  (1976年 中央党校で胡耀邦の支援を得て社会主義経済論の執筆研究
1977年 国家計画委員会顧問兼経済研究所所長
1977-1978 洋躍進を憂慮 党幹部に書簡を提出
(1978年4月 洋躍進を憂慮して鄧小平らに書簡提出)
  (1978年10月 計画委員会に社会主義経済論の打診・孫冶方との違い
 1979年3月 理論研究会書面報告
1979年7月 北京日報に寄稿 若者の失業問題を指摘して、個人営業を認めることを主張
若者の失業問題を憂慮して建言(1979年)
 薛暮橋は考えた。1958年に自分で損益を出す公私合営商店と手工業合作社が一掃されたあと、一方には大量の社会的に切迫して求められる仕事をする人がいなくなり、他の一方には仕事にたどり着けない大量の労働者が存在している。運輸業、建設業、飲食業、修理業、サービス業など当時都市で大変必要で、しかしまた大変不足している業務である。これまでの資本主義の抜け道になるので塞がねばならないといった議論をあらため、集団企業そして個人企業の発展を許してはどうだろうか。都市に戻った青年たちが自分で就業の道をみつけることを奨励し、伝統の小吃,小攤點を復活する。この観点はのちに国家 集団 個人の三つの企業(門)への就業に向けて道を広げようと、まとめられた。
   (薛暮橋がどこまでの変化を予測していたかはわからないが、結局、この改革が私営企業の再開、今日の隆盛につながる。
     娘の薛小和はこの行動の背景に胡耀邦の支持があったこと、党校の理論動態にまず書いたあと、人民日報、北京日報と記事を寄せたこと。薛暮橋自身が早朝天安門まで行き、撮影をしている個人業者にどのような問題があるかと質問したことなどを明かしている。薛小和《祝福你,爸爸,你走完了近乎完美的一生》載《百年滄桑 一代宗師》中國發展出版社,2006年,207-209)
  参照 ⇒ 私営経済の大門をあける

1979年10月 米国訪問
1979年12月 社会主義経済問題研究の出版
  中国経済の社会主義化の問題点を指摘 共有制が多様性・活発性を損なったことなどが指摘されている。
  工商業の社会主義改造 社会主義改造の行き過ぎを指摘 小商工業、農業での自留地・副業の肯定
  農業の社会主義化 農民自身の要求だったと語る点に疑問がある。実際には集団化に農民の広範な抵抗があったことが知られている。

1980年10月 中央党校で報告 我々の社会主義経済は公有制を主とし、様々な経済成分が併存する商品経済である
1981年5月 中日経済知識交流会顧問に就任 馬洪を団長として訪日
1982年初め 陳雲同志が計画経済主 市場経済補の方針強調
1982年4月 陳雲の言葉に沿った論文を紅旗に発表
1982年5月 新設の国家経済体制改革委員会顧問 中日経済知識交流会第二次会議に参加
1984年10月 党十二届三中全会 社会主義経済は計画のある商品経済 これは理論上の大きな突破(なぜなら社会主義経済=商品経済 訳注)
1987年12月 党の十三大閉幕を受けて 十三大で提起された社会主義初級段階理論を社会主義学説上の一大発展とする論文を人民日報に発表
1988年6月 国家計画委員会の物価問題座談会に出席 通貨膨張を抑えることを提言 
(訳注 1988年のインフレによる経済混乱は趙紫陽失脚の原因の一つと考えられる。趙紫陽自身は預金金利引き上げが遅れたこと、価格統制に逆戻りしたことなどを判断ミスとしている。以下を参照。《國家的囚徒》時報文化出版,2009年,159-168『趙紫陽極秘回想録』光文社, 2010年, 212-222)
最晩年の薛暮橋の様子について入り婿の張康平は、1999年7月以降亡くなる2005年7月までの長期にわたり、病院で重い病床にあり気管支を切開したので話すこともできなかったとしている。(張康平《點點滴滴憶爸爸》載《百年滄桑 一代宗師》中國發展出版社,2006年,204-206)

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