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工商業の社会主義改造(薛暮橋「中国社会主義経済問題研究」第2章1979/1983)

薛暮橋「中国社会主義問題研究」(1979年 人民出版社 なお1980年外文出版社から邦訳 手元には1983年版 人民出版社もある。以下ページ数は邦訳版-外文出版社のもの) 

→ 第2章 ここでは所有制の改造に伴う問題が記載されている。一つは実際にどのように改造が進められたかである。ここでは順調に進められたことが書かれているので、プロセスを美化しているように思える。改造に不満をもったり反対した人たちなどの問題が消えているように思う。記述の最終部分では、商工業については、商品の品種の減少・サービスの悪化が語られ、農業のところでは農業生産の落ち込みが語られている。そして手工業や小商業、農業における自留地・副業は、人々の便宜を考えると、集団化・集中化する必要はないとしている。

 邦訳p.44  新中国が成立した当時、わが国には主に三種類の経済構成要素、すなわち社会主義的国営経済。資本主義経済、農民と手工業者の個人経営経済が存在していた。そのうち、個人経営経済は、数量のうえでは、国民経済のほぼ90%を占めていた。しかし、生産方法が立ち遅れていたため、個人経営経済は国民経済のなかで従属的な地位を占めるにすぎなかった。

邦訳p.46  1950年のはじめ、われわれは全国の財政経済活動を統一的に管理し、全国の財政収支、物資の調達、現金の管理を統治した。農村では、現物農業税の徴収と余剰食糧の買上げを通して、投機資本の主な買いあさりの対象(食糧)を手中に握った。

邦訳p.47 物価が安定すると、人びとはよろこんで貨幣を蓄え、市場の通貨は多すぎるのではなく、少なすぎるようになった。人民政府はこの機会に、市場の需要に応じて通貨を増発した。国家はまず、農村でひきつづき食糧、綿花などの重要な農産物の買上げを行った。・・・加工・発注の結果、多くの私営工場は、国家の要求に従って生産しなければならなくなり、知らず知らずのうちに、国家資本主義の道を歩み出した。国家は、購買・販売協同組合を通じて大量の農産物を買いあげ、また加工・発注を通じて大量の工業品を握り、同時に大部分の卸売業も握ることによって、農民、手工業者、私営工商業をみなその指導下におくことになった。プロレタリアートとブルジョアジー、社会主義と資本主義が国民経済の指導権を争奪しあう闘争は、これで決定的な意義をもつ勝利をかちとったのである。

邦訳p.48 新中国の成立直後、十数年にわたる戦争の破壊で農業生産はほぼ25%、軽工業生産はほぼ30%、重工業生産はほぼ70%下がっていた。

邦訳p.49 3年の回復期には、社会主義経済と資本主義経済との力関係に大きな変化が生じた。1949年から1952年までに、工業生産額に占める国営工業の比重は34.7%から56.0%に伸び、公私合営と加工・発注は9.5%から26.9%に伸びたが,自家生産・自家販売(私営企業自産自銷)は55.8%から17.1%に下がった。社会主義的国営経済と国家の統制を受けている国家資本主義を合わせると、工業全体の中で圧倒的優勢を占めるようになった。1950年から1952年までに、卸売業のなかに占める国営商業と購買・販売協同組合の比重は23.9%から63.7%に伸び、小売業のなかに占めるその比重は14.9%から42.6%に伸びた。

邦訳p.55 加工・発注の契約を結んだのち、国家は私営工場の流通過程をにぎり、私営工場と市場とのあいだのつながりを断ち切ってしまったから、程度の差こそあれ、かれらの生産過程を支配することになったのである。こうして、資本家は投機活動を通して暴利をむさぼることができなくなった。

→ ここで三反・五反運動の意義が、1951年以降の物資のひっ迫のもとで、資本家側の態度が原因で起きたものだとの説明がおこなわれる。三反・五反は資本家をいじめて萎縮させ、納税を勧めたり、その後の社会主義化を容易にするために、策略として仕掛けられたようにとらえていたが、この書き方では原因をつくったのは資本家側だという印象を与えている。

邦訳p.55-56 1951年,抗米援朝戦争の勃発により市場の供給がひっ迫すると、ブルジョアジーは機に乗じて商品価格を吊り上げ、加工・発注の受け入れを喜ばなくなったばかりか、締結ずみの契約さえ、まじめに実行しなくなった。かれらは、さらに贈賄、脱税、国家財産の横領、手抜きと材料のごまかし、国家の経済情報の窃取などという不法行為を通じて、プロレタリアートとの闘いをくりひろげてきたのである。党中央はやむを得ず「三反」「五反」運動を繰り広げて、国家機関や国営企業内部にもぐっていたブルジョアジーの代理人を一掃し、ブルジョアジーが上に述べた「五毒」行為を利用して国家にしかけてきた狂気じみた攻撃を粉砕しないわけにはいかなかった。「三反」「五反」運動の勝利によって、資本主義商工業はまたもや困難にぶつかり、やむなく国家の加工・発注、取次販売・代理販売をさらに受け入れて社旗主義国営経済の指導をおとなしく受けるよりほかはなくなった。

→ 以下では公私合営を資本家側が追い込まれたのではないだろうか。仕入れ発注の両面で、資本家側は公私合営を求めるしかなかったのではないか?個別企業の公私合営、全業種の公私合営の区別も要注意。

邦訳p.57 新中国の成立当時、すでに多くの公私合営企業があった。それは多くの私営企業の中に国民党の官僚や戦争犯罪人の株があり、それが国家に没収されて公私合営企業になったものである。

邦訳pp.57-58 企業が公私合営になってから、国家の当時による拡充と改造が行われて生産が急速に発展し、利潤が著しく増加したので、多くの資本家も歓迎した。1954年から、国家は比較的大規模の私営工場の多くを次第に公私合営の範囲に組み入れた。国営と公私合営の発展によって、残された中小使役企業のおかれた状態はますます困難になり、彼らも公私合営を要求するようになった。・・・1956年の初め、北京の各業種の資本家がまっさきに全業種の公私合営を要求し、ほかの都市も直ちに呼応し、その要求が国家から承認された。

邦訳pp.58-59  全業種の公私合営は、国家資本主義のいっそう高い発展段階である。全業種の公私合営をおこなうには、それまでの利潤分配方法を変更しなければならない。個別企業の公私合営がおこなわれていたときには、各企業はみなそれぞれの損益に自ら責任を負い、その利益は公私の持ち株数に応じて分配された。・・・しかし、全業種の公私合営をおこなうと、多くの企業が合併・再編成されるから、企業ごとにそれぞれの利益分配をおこなうことは不可能である。・・・そこで、政府は資本家と協議して、利益を統一的に分配する定額利子(定息)の制度に変更した。・・・定額利子の実施後、資本家は企業利益の多少にはもはや関心を持たなくなり、手放しで国家に合併・再編成にまかせた。その後、公私合営企業は完全に国家に管理されることになり、旧来の資本家または資本家代理人は、企業の中で国家から適当な職務を割りあてられ、企業の従業員になった。こういう公私合営企業は、資本家がまだ定額利子を受け取るほかは、もう国営企業とほとんど区別がなくなり、基本的には社会主義経済になったのである。1967年、文化大革命の高まりのなかで、資本家に対する定額利子の支払いが停止され、公私合営経済は完全に社会主義国営経済になった。

→ 以下では零細工業 零細商業にまで公私合営、合併・集中を進めたことが行き過ぎで、商品種の減少・サービスの低下・住民生活の不便につながったことが指摘されている。ただ疑問が残るのは、では大工業・大商業の公私合営や社会主義経済化には、問題はなかったのかということである。多様性や機敏性というものを、零細工業 零細商業が持っているとすれば その理由がもう少し分析されてよかっただろう。

邦訳p.60-61 1956におこなわれた全業種の公私合営は、資本主義工商業に対する社会主義改造の決定的な勝利の一つであった。私営工商業の社会主義的改造は、農業協同化運動の高まりに促されて急速に発展してきたもので、その足取りはやや速すぎた。当時、多くの零細工業、とりわけ零細商業は、社会的になお一定の積極的な役割を果たしていたが、あまり合併しすぎたため、商品の銘柄や品種の減少をきたしサービスは低下、住民の生活にかなり不便をもたらした。

(公私合営化された商店の多くは実際には相変わらず、損益にみずから責任を負っていた、国営商業の取次販売代理販売だった)邦訳p.61 ところが、1958年以降、とくに文化大革命の中で、公私合営商店が廃止され、国営商店に合併されるか、またはその分店・支店に組み入れられ、国営商店の一手引き受けという状態が形成された。そうなると、商品の銘柄や品種がいっそう少なくなり、多くの経営上の特色が失われ、サービスも悪くなってしまった。経験が示しているように、一定期間、都市の工商業にある程度の多様性、機動性を保たせることには、利点がある。あまりにも早くひとまとめに全人民所有制に移行させるのは、生産の発展のためにも人民の生活の便宜のためにも不利である。

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