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農業の社会主義改造 (薛暮橋《中国社会主義経済問題研究》第2章1979/1983)

薛暮橋「中国社会主義問題研究」(1979年 人民出版社 なお1980年外文出版社から邦訳 手元には1983年版 人民出版社がある。こちらを原書として引用する)第2章後半。邦訳pp.61-78 原書pp.30-50(写真は心光寺石仏。)
ここで最初に引用されている毛沢東の言葉邦訳p.62。「分散的小生産こそ封建支配の経済的基礎」這種分散的個體生產,就是封建統治的經濟基礎「このような状態を克服する唯一の方法が、次第に集団化することである」《組織起來》毛澤東選集第三卷 これは毛沢東が集団化を急いだ理由の一つとなりうる。それから薛暮橋自身の指摘邦訳p.63として「大多数の農民は」「社会主義の互助・協同の道をあゆもうという要求ももっていた」。私はこれは違うと疑っている。これについては薛暮橋自身に証拠を示す責任がある。

→薛暮橋は合作に進むべき理由を挙げている。彼が合作論者であることがうかがえる。合作化に抵抗する農民がいたことが一言も記録されていない。
邦訳p.62-63  個人経営農民の労働力と労働手段の所有状況は不均等で 役畜を共同使用すれば 集団労働によって労働生産性をひきあげることもできる。また私有制の下での不合理な分割 土地を効果的に利用するためには、各農家のネコの額のような土地を合併して 初級合作組合を作る必要があった。としている。

薛暮橋は農業生産組合の初級と高級との違いを説明している。邦訳pp.64-65
初級農業生産協同組合では 各農家はあいかわらず土地に対する所有権をもっている。役畜と大型農具は共同で使用するが、それはやはり元の所有者に属している。生産物を分配する場合、大部分は労働に応じて分配するが、一部は土地に応じて分配し、役畜や大型農具の使用に対しても一定の報酬を与えなければならない。邦訳p.64

高級農業生産協同組合では 土地による利益分配はなくなる 国家への納税と少額の公共積立金及び福祉基金に充当する部分を差し引いた残りを全部、労働に応じて分配する 邦訳pp.64-65

邦訳p.65 中国における農業の社会主義改造は、ひじょうに早く完了した。土地改革の完了後、党中央は「鉄は熱いうちに打つ趁熱打鐵」という方針を決定し、ただちに農業の互助・協同運動を繰り広げた。1953年過渡期の総路線が公表されたのち、協同化の速度が早められた。党中央は、もともと15年内に農業協同化を達成する予定だったが、1955年には14.2%に増え、1956年には96%に急増した。そのうち高級協同組合加入農家は全国農家戸数の88%である。だが、1956年の末に新しくできた協同組合のなかには、ただ看板をかかげただけで、まだ集団生産や分配を行っていなかったものが多い。したがって農業の協同化が実際に達成されたのは1957年である。

→ 薛暮橋は作業の協同化や所有の共同化に農民が抵抗したことに一切触れないので、共産風が生まれた原因を説明できていない。そもそも共同化を政治的に強引に進めた(=前進が速すぎて)と言われている。人々は働いても自分の成果にならないので労働意欲を失い、組合に取られるぐらいならということで役畜の屠殺が広がった。他方で農村であれば、もともとは互助的な協同作業があったはずである。それがその後、自然に成立せずに共産幹部と農民とが敵対するのは、協同組合あるいは人民公社がもともと存在した地域の関係を超えた規模に拡大されたこと、末端の幹部が地域の利害を重視しないで、ただ上の支持に従い農民には命令を乱発する官僚になっているからではないか、と推測するが、このような立ち入った点は個々の組合の運営について、今後検証の必要がある。薛暮橋があくまで集団化を進める側の人間としてまとめていることに、読んでいて吐き気がしないわけではない。
邦訳pp.66-67 中国の農業協同化は、初めの数年は比較的慎重に行われ、足取りも比較的慎重であった。 だから、協同化の過程で、農業生産は年々伸びていった。ところが1956年は前進が速すぎて、この年から農業生産の伸び率が下がり、役畜もかなり減り出した。1958年、中国の農業協同組合はさらに発展して農村人民公社になり、足取りが極めて速くなった。一部の地区では、人民公社を統一的な生産と分配の単位にすることを急ぐようになり、一部の県では「県連合公社」を作って、全国的な統一分配を要求し、集団所有制を実質的に廃止してしまった。「一に均等、一に徴発」をやり、「共産風」を吹かせたので、広範な基層幹部や農民の生産意欲がくじかれ、その他の原因も加わって、1959年から連続三年、農業生産は大幅に減少した。

→ 邦訳p.67 このあとについては、毛沢東自身が1957年2月共産風を批判したこと。1961年の制定された農村人民公社工作条例(六十ケ条)で、生産と分配の基本単位を人民公社ではなく、生産大隊さらに生産隊へと引き下げて行くことが定まり、農業生産は回復するようになったとしている。
→ 邦訳p.68 この時の誤りの原因について「農業の集団所有制が強固にならなかった根本原因は生産力の発展が低い点にあること」がわからなかったからだとしている。だとすると、生産力に対応しない生産関係を押し付けた共産党やそれを支持した薛暮橋自身にも責任がある。「われわれは認識がたりなかった」といっている。しかしわからないのは、薛暮橋自身がどう考えていたのか、どのような責任が自身にあると考えているのかである。個人が消えて、全体の話になっている。

→ つぎに手工業について、購買・販売協同組合、生産協同組合,協同工場の発展順序で、集団所有制経済への改造が進められたとし、1956年末には90%以上の手工業者が生産協同組合に組織され、手工業の社会主義改造が基本的に達成されたとしている。邦訳pp.71-72

→ しかし人民生活水準が向上すると、手工業労働への需要は逆に増加するとしている。邦訳p.74 私の解釈では、サービス産業 第三次産業的なところである。あるいは商品でもより品質の高い品物、多様性やデザイン、様々な嗜好に合わせたもの。これに対して一つの協同組合への組織化は、製品の品種の減少 質の低下 修理ニーズ・身近での提供 などに反していたと指摘する。疑問に感じるのは、組合だから品種や質の低下が起きるのではなく、その組合の運営のされ方に問題があるのではないか?という点である。ただ豊かな生活というものが、さまざまな選択が可能な社会だというのは共感できる。

→ このほか、商業の社会主義的改造により長距離販売の私営商人をなくしたことは都市と農村の流通経路をなくしたので問題だったということ(邦訳p.76)社会主義的改造が達成されたあとも市取引が残っているが、これをむしろ残しておくべきだという記述(邦訳p.77)が続く。

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