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蔡元培 北大校長就任演説 1917

 蔡元培は渡欧してフランスにいたときに、北京大学校長就任の要請を教育部から電報で受けて帰国した(写真は東京大学本郷キャンパスにて安田講堂)。多くの友人は北京大学の腐敗はひどくとても整頓できたものではないと、就任に反対したが、少数の友人は、誰かが整頓せねばならないとして、我を抑えて整頓を試みることを勧めた。自分はこの少数の友人の勧めに従い、北京に向かったとしている。(蔡元培《我在教育界的經驗》載《蔡元培自述  實庵自傳》中華書局2015年pp,3-43, esp.39)
    以下は就任に際して、学生に向かって行ったとされる有名な演説の一節である。蔡元培《北京大學校長就職演説詞》載《民國時期名人演講集》國家圖書館出版社2012年,pp.2-4。最近の日本では、大学と専門学校との区別が小さくなっている。大学の大衆化によって大学教育の意味は変わっているとの指摘もある。それでも蔡元培のこの100年前の演説は、大学の在り方について正論を提起していて、現代の日本にも通用する部分があるようにも思える。

p.2   何か目的をもって君たちはこここにきた。必ず何か目的があった。その目的の追求が正しいか(正大與否)を(議論する前に)大学とはなにか(大學之性質)を知る必要がある。専門学校で学んだ人が、学び終えて仕事に就く、これはもとより当然(必然)である。しかし大学においてはそうではない。大学者とは、研究(内容が)高くかつ深い学問をする人のことである。(ところが)外の人は本校の腐敗をつぎのように指摘しているー(本学に)学ぶものは皆官吏になって金儲けをしたいとの考えを胸に秘めており、(その結果)予科を卒業した者の多く法科に進学し、文科に進むものは甚だ少ない、それは法科を(官職)禄を得る最短の道(終南捷徑)と考えているからであると。官吏になろうとするあまり、教員に対しその学問の浅い深いを問うことなく、その官位の高低を問題にしている(大学が官吏の養成機関であったこと、行政司法から官吏が兼任教員として大量に入っていたことなどが背景 訳者)。官位が高いものを特に歓迎するのは、それは卒業後の関係(提携)となるからだ。現在わが国では、政治法律に精通したものは多く政界におり、専任教授は甚だ少ない。教員を招くには、問題がない(兼善)人を招かないわけにゆかないし、身内でない(不得已)推挙の人もまねかないわけにゆかない。外部の人の指摘の当否はしばらく置いておこう。自ら考えて、他人が私を腐敗していると嘲笑し、だが自分は腐敗していない、恥ずべきことはない(問心無愧)何がいけないのかと? 官職に就いて金儲けする目的なら、北京にはたくさん専門学校があり、法科に入ったものは法律学堂を卒業でき、商科を学びたいものは商業学校に受験入学することがきる。なぜこの大学に来る必要があるのか?それゆえ君たちが固く抱くべき目的は、学ぶためにきた(爲求學而來)ということでなければならない。法科に入ったものは、(目的は)官僚になるためではないということ。商科にはいったものは、(目的は)金儲けのためではないということ。目的は定まっており、自ら正しい道を歩んでほしい(自趨正規)、君たちが卒業するまで3年あるいは4年。時間は多くはない。時を惜しんで学問にはげめば、その程度は極めるところまで達するであろう。もし志が官職につき金儲けをすることにあるなら、目的から離れ別のところに行ってしまう。いつもは遊び惚け、試験のときだけテキストを熟読する。学問のあるなしを考えず、ただ(試験の)点数の高低を気にする。試験が終わり書籍の束は書棚に戻された。(その時)なぜ問わないのか?三四年いい加減に過ごして卒業証書を手に入れることは、その後の社会の活動にとり残念なことではないかと。時間がむなしく過ぎ、学問がないのは己の誤りである。辛亥の役、
p.3  われらの革命は、清朝の官吏が腐敗したためだった。今日、官吏で要職につくもの(當軸)に不満が出ている、その道徳が失われていると。今諸君が学ぶことでその基礎を固めないままでいると、将来、生活に迫られて仕事につくとどうなるか。(君たちが)講師となれば、学生を誤らせること(になり)、政界にあっては国家を誤らせること(になる)。人を傷つけるのである。誤りは人を傷つける、それは(君たちが)本心から望むことなのか?(そうなるのは君たちの大学に進学した)目的が正しくなかった(不正大)からである。(以下略)

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