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陳振漢 六教授意見書 1957/05-06

名人簡歷 陳振漢 全訳

陳振漢(チェン・ツェンハン 1912-2008) 男性 浙江省諸暨縣人。経済学者、経済史学者、教育家。北京大学経済学院教授。全国第一批中国経済史専業博士生導師。北京大学経済学院で長く教えた、わが国経済史学領域の一代大家と称される。

1919-1929年。まず諸暨、上虞,杭州で小学と中学に学んだ。彼が忘れがたいとするのは上虞春暉中学の日々だ。そこには夏丏尊xiamianzun,豐子愷,朱自清,朱光潜など一群の当時国内で知られた学者、教育家が集まっていた。
1928年秋 彼は文科でトップの成績に有名な杭州高等中学に入学した。

1929年南開大学予科に合格し2年後卒業直ちに南開大学経済学院に入学した。そこで当時もっとも系統的で優秀な経済学教育を受けた。著名な経済史学者方顯廷先生の教えは、以後の学術発展に深く影響した。

1935年大学を卒業し、同年清華大学公費米国留学の試験に合格した。
1936年秋ハーバード大学文理大学院経済系で経済史を専攻した。先生は生涯を通じて経済学研究の理念にこだわった。すなわち経済史研究は、経済学者の理論水準、理論抽象化能力が現われてなければならないとされて、些末な史実を引き出すことをもって歴史を学ぶこととすることに反対した。経済史研究は、歴史統計資料の科学分析を重視すべきだと考えられて経済史の理論と論証はすべて統計に基づくべきであると主張された。ハーバードにおいて先生はまず文学修士号そして哲学博士号を取得された。博士論文の指導教授は経済史学者の阿希爾(A.P.Usher)教授であり、博士論文の題目は「米国紡績工業の区位1880-1910」。その中の「米国綿紡績業 コストと生産率と地区差異1880-1910」の部分は米国で最も古く学術地位のとても高い刊行物「経済学季刊」に発表された。

1940年4月に帰国。何廉と方顯廷先生との母校にとの約束を守り、南開経済研究所に赴任した。1942年中央大学教授を兼任。抗戦勝利後ただちに北京大学教授に任ぜられた。1947-48年、燕京大学、南開大学教授、南開中央研究院社会研究所兼任研究員を兼任した。

1941-1948年の間、国内で重要な学術刊行物に多数の論文を発表した。戦時経済建設、経済政策、財政問題、計画制度、区位理論など自身の見解を発表しさらに北京大学で比較経済体制課程を教授し、社会主義経済制度を紹介した。

北平解放前夜、去るか留まるかの大きな判断で、先生は北大の何人かの進歩教授と留まることを互いに約束した。北平解放後、北大法学院中国経済史研究室主任に任ぜられ、「清実録」「東貨録」経済史資料の編輯を開始した。

1950年9月ー1951年8月 中共中央《毛沢東選集》英訳委員会委員に任ぜられ、具体翻訳工作に参加した。

1951年9月-1952年8月 広西に行き土地改革に参加した。

1952-1953年 北京大学経済系代理主任に任ぜられた。

1953年 中国民主同盟に参加し、その北京大学支部副主任委員に任ぜられた。

1955年 中国科学院《経済研究》編集委員会委員、経済研究所兼職研究員に任ぜられた。

1955年秋 北大経済系明清経済史方向の研究生導師。この間心を傾け協力して整理した「清実録」資料で初歩的成果を得た。1955年の《経済研究》において重要論文《明末清初(1620-1720)中国の農業労働生産率 地租と土地集中》を発表し、国内外学術界に大きな反響を引き起こした。この論文は大変学術価値の高い一篇と公認された。

1957年5-6月 大鳴大放(大いに語り解き放て)との呼びかけに答えて、先生は著名な教授徐毓旃、羅志如、巫寶三,寧嘉風,谷春帆を数回にわたり集め、経済科学の現状と今後の発展方向問題について座談し、座談の結果として「当面する経済科学工作についての我々の若干の意見(我們對於當前經濟科學工作的一些意見)」なる一文を書いた。この意見書は、マルクス主義の古典にいかに向き合うか、西方資産階級経済学にいかに向き合うか、わが国政治経済学課程をいかに改革するかなどの問題、経済建設工作は必ず客観経済規律を遵守すべきことなどで建議を提出している。

今日この特別の(独特)意義のある歴史文献を読むと、先生と教授方の深い見解と勇気に敬意を表すほかない。全体から言ってこの意見書の我が国経済科学の発展状況についての分析は客観的であり、的を得ており(中肯的)今日の目で見て足に地がついている。かつ今日の経済科学工作すべてになお重要な啓発的意義がある。

 1957年の「意見書」は先生の運命を変えた。このわずか数千言の建言に彼はとても重い生命の代償を支払うことになった。彼は資産階級右派分子に区分され、職と給与を落とされ、労働を強制され、著作と講義の権利は奪われ、『文革』の間、江西省南昌県鯉魚洲農場に労働改造に送られた。1979年になってようやく先生は右派分子の帽子を外され教学と科学研究の職位に戻った。22年にわたる右派としての逆境の間、先生の奥さんである中央財経大学の崔書香教授は明るく淡々と強い意志で耐え、先生の生活と精神のこの上ない支えになった。
なお入手した『歩履集』(北京大学出版社2005年)の巻末付録にこの意見書が含まれている。意見書は第一次稿、第一次稿(修正稿)、第二次稿の3つからなる。正直にいうと第一次稿、第一次稿(修正稿)は、文章が長文で固い。第二次稿は各文章が小さくなって、簡明になっている。第一次稿では経済工作者が経済科学を軽視しているという不満が、解放前との比較で論じられているほか、資産階級経済学を唯心主義と批判するだけで良いのかという疑問が全面におしだされている。第二次稿では、やや感情的に思える前者の批判が、経済科学工作者と業務部門との連携強化という主張に変更されたほか、資産階級経済学についての後者の批判も、資産階級経済学から学べるところを吸収するべきとの主張に切り替えられている。なお小稿末尾に第二次稿の冒頭部分など一部を訳出した。

先生は物静かにしておおらか。学術上輝いていた時も生活が厳しく寂しかった時も、静かに歴史と運命に向き合った。仕事が回復した時、先生はすでに古希に近かったが、只爭朝夕(語義 短い時間で目的を達するように努める)の精神で再び深く愛する教学と科学研究工作を開始し、中国経済史、外国経済史の2つの専業修士研究生を受け入れ、経済史概論、経済史名著選読、中外経済史専題などの課程を開設した。

1981年ー1982年 ドイツ連邦共和国西ベルリン自由大学東アジア研究所客座教授の招へいに応じて中国近代経済史を講じて1982年に帰国した。同年全国第一批中国経済史専業博士生指導教師資格を受け、博士生を受け入れた。その後、明清経済史研究と資料整理の仕事を継続し、1989年《清実録経済史資料》第一輯<農業篇>を北京大学出版社から出版した。併せて《北京大学学報》に長編論文「<清実録>の経済史料価値」を発表した。これは大変量の多い清代史資料についての紹介と全体的評価となっている。

1999年《社会経済史学論文集》を経済科学出版社から出版。2003年にはまた1980年代の講義録《経済史学概論》を整理の上、北京大学出版社から出版した。

歩履集 (北京大学出版社2005年)
p.396       六教授意見書第二次稿 pp.396-401
    政治経済学は、物質資料の生産と分配の規律を研究する科学である。また革命闘争と経済建設を指導する科学である。解放以来我が国は国民経済は回復しており、民主革命は完成し、社会主義改造と社会主義経済建設が進む戦線において、一連の史上前例のない輝かしい勝利を獲得した。しかしわが国の経済科学は相応の発展を獲得していない。マルクスレーニン主義の一部分である政治経済学は多くの幹部の理論教育において重要な作用を果たしているが、しかし目前の既に明らかな形勢の必要に対する遅れは、内容の改善と質の向上を切迫したものとしている。重要な問題は政治経済学の科学研究工作が、我が国においては発展していないだけでなく、発展の必要条件を未だ十分に有していないことにある。それ故に、革命を指導する、実践的効果(作用)を生み出す(建設)というところまで進むとすぐに困難をきたし、宣伝教育としての講壇上の教え(説教)もまた実際と合わず、実際生活からかけ離れている。目下の我が国経済科学の情況は、毛主席は194×年に経済学者は「辺境の貨幣を解釈できない」と批判した情景と比較してそれから多少前進したということもできない。我が国経済学界の空気は沈んでおり、多くの経済科学者の気持ちも沈んでいる。党がこの2年の後、科学進軍のこの2年後の召喚を提起し、各方面の科学文化工作者すべての「百花斉放」「百家争鳴」の方針のもと鼓舞して、経済建設の高まりを熱烈に期待し、文化建設の高まりが来ようとしている今、経済学界はなお消沈している。原因はどこにあるのか?経済科学工作はどのようにすれば発展できるのか?我々はここに進んで幾つかの未成熟な見方を提起し、皆さんの討論に委ねたい。
 我々はまず経済科学発展の前途ははっきりしているべきだと考える。それは正確な社会(の把握であり)、さらに言えば実際の経済工作者の経済科学の認識(を高めること)である。
 社会は不断に発展し、支配物質資料の生産と分配の規律もまた不断に発展する。まず(単就)我が国についていえば、最近数年間の革命と建設はすでに多くの感動的(生動)で豊富な経験と問題を提供した。もし科学的に研究、分析、総括を進めるなら、それは系統立った理論知識となり、必然的に創造的にこの科学を発展することができる。この種の科学研究の成果は、まず我が国の今後の社会主義建設の方針政策提供に一定の客観根拠を提供することができ、同時に国際間で社会主義革命を新たな勝利にむけて推進できる。
 我々中国の経済学界は自身を信じ(有信心)勇気をもってこのような任務を担うべきである。中国の経済学者は、マルクスレーニン主義を指針としており(有馬克思列寧主義作爲指針)、資産階級経済学者がその階級立場に制約されて事物の本質を見ることが出来ないのとは、異なっている。中国の経済学者は、百家争鳴の方針に鼓舞されて、最もよい条件で科学研究と議論を進めることを希望できる。(しかし)目下我が国経済科学工作はこのような展開はまったくなく、すべての経済学界は消沈している、主要な原因は、多くの経済科学工作者が実際からかけ離れており、
p.397   十分な研究資料を掌握しておらず、思想上は教条主義の束縛を長期受けており、同時に一部の経済科学工作者の力量は良好に発揮されていないからである。我々の経済科学工作を前に一歩進めるために、以下の三つの方面の着手から始めるのがよいだろう。
 (一)経済科学工作と業務部門関係の密接化。必要な資料の公開。経済科学工作者の連携は実際、多方面に進められるべきものであるが、その中で重要な経路は業務部門にある。
 我々は過去政府業務部門は経済科学工作の効果(作用)を全く十分には重視していないと認識している。(また)本部門以外の経済科学工作者に対する連携は密接ではない。(中略)
p.399      (二) 経済学界内部の団結の強化、特に党内外経済科学工作者の間の団結。
   我々は次のように認識している。負担している任務からすれば、我が国経済学界の現有の隊伍はなお小さい。力量はなお薄弱である。経済科学事業発展の重要条件の一つは党内と党外の経済科学工作者間の団結を強化し、群衆の中の積極要素をこの事業のために役立てることである。現在我が国経済学界には不団結現象が十分に顕著というほどではないが、しかし真面目に隙間なく新中国の経済科学発展に力を尽くしているとも言えない。経済工作者の間の文人は互いに軽んじる間なので(文人相輕)習慣としてもとより関係があるが、重要な点は党内党外の経済工作者の間でなお強い団結がないことである。我々は党内の経済科学工作者が、広大な党外の経済科学者に関心を持ち援助できることを希望する。(中略)
p.400 (三) 経済科学発展が健全に発展するための別の一条件は教条主義的束縛からの脱却である。教条主義を脱却する方法は、無論、実践に献身するなかにあること、この点はすでに述べたところである。
 経済科学工作が業務部門に重視されないことにより、経済科学工作者が実際と接触できないことにより、経済科学工作者はこの数年来基本的に教条主義の捕虜にならざるを得なくなっている。(以下略)」

楊春學    西方經濟學在中國的境遇-一種歷史的考察

山本裕美「現代中国の政治経済学」『中国と日本の政治経済学』(河上肇シンポジウム報告書)2005年24-29 (この山本氏の整理は現代経済学とマルクス経済学を明確に分けていないので、整理の仕方として疑問がある。両者の間にはやはり壁がある。)
山本裕美「現代中国の政治経済学(1)」『京大上海センターニュースレター』55号2005年5月11日 (この山本氏の記述のうち馬寅初についての記述は、その後の進展により、いくつか訂正が必要である。1948年に香港にでて周恩来の要請で北上したと山本氏はしているが、事実は中共中央の手配で1949年2月15日に秘密裡に上海を離れて2月18日香港に入り、その後は中共香港工委の手配で2月28日船で北上。3月11日に煙台着。天津を経て北京に3月18日に到達している。《馬寅初年譜長編》商務印書館2012年437-438。また馬寅初の大著が紅衛兵の乱入により馬の眼前で焼かれたというのも違っている。実際、紅衛兵の襲撃は馬家にまでおよばなかったが、危険を感じた家人によって書籍や書簡とともに焼かれたというのである。以下を見よ。趙傢明《北京大學光榮與恥辱》明鏡出版社2010年122-124)
福光寛「中国経済学史を学んで」政治経済研究所報告2021年6月21日

中国経済思想摘記目次



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