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梁陳方案(1950年2月)について

 ここで梁陳方案とは梁思成そして陳占祥の二人によって、まとめられた北京市の都市計画案のことである。今日、北京を訪れるときに、すでに我々はそこにあった北京城の多くの遺構が失われていることに無自覚である。その遺構を保全しようと練られた計画が、梁陳方案である(この方案は林洙編『梁』中国青年出版社2013年1月pp.288-316に収められている。)。
 この方案(方案とは手順計画の意味)は採用されなかったが、しかし結果として不採用だったことを惜しむ意見は中国にもある。ここでは王軍の「梁陳方案の歴史考察」(林洙編『梁』中国青年出版社2013年1月pp.317-344所収)という論文の記述により、なぜ梁陳方案が不採用だったのかについて私見をのべておきたい。

 まずこの案を提出した二人の紹介である。梁思成は梁啓超の次男(長男は生まれて2ケ月で夭折している)として1901年に東京で生まれ、1912年まで日本で暮らした。その後、中国に戻り清華学校で学んだあとに米国へ留学。ペンシルバニア大学で建築学修士号を得ている(1927年6月)。その後、半年ほどハーバード大学大学院で学んだあとに帰国し、まず沈陽の東北大学建築系主任として系の立ち上げを経験している(1928年9月-1931年6月)。しかし東北大学内部の問題などもあり、東北大学を辞めて、古建築研究の学術団体である中国営造学社に転じ本格的に中国の古建築を研究するようになった(1931年9月ー1945年)。そして1946年から清華大学建築系主任となるのである(1972年亡くなるまで)。(以上の梁思成の紹介は、林洙『建築師梁思成』天津科学技術出版社1996年7月による。)
 もう一人は陳占祥はまず英国リバプール大学で建築学を学んだあと、ロンドン大学で博士号を得た人である。国民党は1946年に、この人に北平(北京)の都市計画の立案を依頼した。ところが国民党政府は、帰国した陳を、南京にとどめ、南京の行政中心区の計画を行わせた。その後、陳は上海にいた。1949年5月の上海解放により、陳は梁思成に自身の事情を伝え、首都の都市計画を共に行いたいと訴えた。折り返し梁思成から、一緒に行なおうと北上を促す手紙が届いた。なお梁思成は1949年5月に北京市都市計画委員会副主任に就任している。
    陳占祥には、イギリスがどのように都市計画をすすめたかの知識があった。1944年にロンドンはどうしたか。ロンドンの周辺に10余りの余りの発展する場所を作り、ロンドン市の人口を減少させたというのである。古城であるケンブリッジはどうしたか。城の外が発展するようにして、古城は全く動かさなかった。そこにわれわれの基本思想が含まれていた、と陳占祥は回想する。

 まず北京市で城市計画制定(規画)会議が開かれ、そこに梁思成,陳占祥など中国の専門家とソ連の専門家が参集した(1949年であるがこの会議の正確な月日は王軍の論文上は不明。私の推測では1949年12月上旬)。そこでソ連の専門家バラニコフが作成した「北京市将来発展計画問題報告」とソ連専門家団提出の「北京市施政改善に関する建議」が報告された。
 バラニコフはまず北京は大工業都市としても発展すべきであるとしている。行政機関の建物の問題については、天安門広場を中心にして、行政機関の建物を整備することを提案している。ソ連専門家団の「建議」は、市の西郊外に建設する構想が出されることを予想して、それは不経済であり、現在の都市の建設と整頓を放棄するものだと批判している。「建議」はまたモスクワ改造の時も周辺に新首都を建設する建議があったが、それを党の全体会議で否定してモスクワの改造を実行できたと指摘している(1953年にソ連を訪問した梁思成は、ソ連建築科学院副院長から、次のような話を聞かされた。1931年にモスクワ総計画の国際コンペで提出された多くの方案は旧モスクワを博物館のように保存し郊外に別の都市を築くものだったが、スターリン同志はこれは小資産階級の実際と合わない幻想だと指摘し、計画の正確な道路を指摘し、改建の総計画を制定した。)。
 ソ連の専門家たちの報告に対し、梁思成が発言し、ソ連の専門家と議論したことは確認されるがそのやりとりの詳細は不明である。ただ、梁思成が、中心区をどうするかは未決定で、分布計画工作は時期尚早と発言したことが記録されている。他方、ソ連の専門家は毛主席の発言を引用しているー北京市党委員会書記彭真に依れば、毛主席は、かつて彭真に対し、政府機関は城内に置き、政府の二次的な機関を新市区に置くと、話したことがあると。(つまりソ連専門家の提案建議は、毛主席の意向に沿ったものだという趣旨のことをソ連の専門家は発言している)。
 この会議のあと、北京市の建設局局長と副局長が連名で「北京市将来発展計画に対する意見」を1949年12月19日に出して、ソ連の専門家の意見への全面同意を表明した。そこで指摘されている点は、郊外に行政センターを新たに作るには膨大な経費が必要で、それが完成するまで利用できない問題があることなど。そして新首都建設案は、人力、財力、物力の条件制約を考えると、実際可能ではなく採用できない、と結んでいる。
 彭真の秘書の回想によれば、北京市長の聂荣臻はソ連の専門家の出した意見を見て大変喜び、それを毛主席に送った。毛主席は「この方針で(照此方针)」でと述べ北京市の計画は定まった、すなわち旧城を基礎に拡充建設が進むことになった。
 だとすると1949年末には、指導部内で方向性は固まったのではないか。
 これに対して梁思成、陳占祥が、旧城区を保全し城郊に新区域を開発することを内容とする「中央人民政府行政中心区位置に関する建議」を完成して自費印刷して、関係する指導者に郵送するのは1950年2月である。さらに1950年4月10日には、梁思成は周総理宛てに「建議」の閲読と意見の聴取を願い出る手紙を送っている。これらの行動は遅かったのではないか。梁思成と陳占祥による建議に対して、指導部は態度を明らかにせず、現実にはソ連専門家の立てた方針に従って、北京市改造が進むことになった。
 現時点から以上のプロセスを改めて眺めると、残念ながら、梁思成、陳占祥が会議していた場所とはかけ離れた高位の指導部内で、毛主席も加わって、実際の決定が1949年のうちには下されていたと言って良いのではないか。梁思成と陳占祥による建議が出されたとき、すでに方針は指導部としては決定済で北京市改造の歯車は回り始めていた。であるから、建議は黙殺され、不採用だったと、私には思えるのである。 


 


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