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天王寺大仏

 谷中大仏、元禄大仏ともいう。今は亡き谷中の五重塔で有名な天王寺。その天王寺を今、支えているのはこの大仏である。天王寺は日蓮の弟子日源により文永11年1274年に長耀山感応寺として開山。江戸幕府が開かれて後は、永勝院、春日局らの帰依をうけて、将軍家の祈願所の役割を果たし伽藍を整備した。
 そうしたなかで大仏は元禄3年1690年の鋳造(手の形は合掌印である)。享保7年1722年鋳造の吉祥寺大仏より約30年前である。東京都内の江戸時代鋳造の大仏の中で天王寺大仏は比較的大きなものといえる。
  九品寺大仏(万治3年1660年台東区 像高1.77m 総高2.61m)
  瀧泉寺大仏(天和3年1683年目黒区 像高2.64m 総高3.69m)
  天王寺大仏(元禄3年1690年台東区 像高3.05m 総高3.83m)
  吉祥寺大仏(享保7年1722年文京区 像高2.93m 総高4.17m)
 以上のほかに、関東大震災で頭部が落ち、胴体部分も第二次大戦時に供出されたという上野大仏(天保12年1841年鋳造)は像高が6mほどあったとされる(この1841年鋳造以前にも像高3.6mほどの上野大仏があった)が現存しない。
 しかし幕府による不受不施派(他宗の者に経を唱えたり施しを受けたりしない:つまり他宗のものと交流しない)弾圧が強まり、不受不施派の感応寺は元禄11年1698年廃寺を幕府から迫られた。これを救ったのが天台宗(輪王寺:上野寛永寺と同じ)で感応寺は天台宗の寺となることで存続が認められた(なお日源より開山されたこと、幕府による弾圧を受け天台宗により継承されたなどの経緯において、谷中天王寺の歴史は目黒の円融寺の歴史と酷似している)。(In early Edo era, Nichiren sect which is one of sects in Japanese Buddhism divided into two groups. One of which did not admit receiving offerings from other religious sects. Tokugawa Shogunate determined it to be a heresy. Because the dogma of the group denies the authority of Tokugawa Shogunate.  This group is called Fujufuseha. And Kan-noji belonged to this sect. Tokugawa Shogunate foced to close  the temple in 1698. At that ocasion Tendai sect which is also one of sects  in Japanese Buddhism came to resucue the temple to continue. Tendai sect inherited the temple. Togugawa Shogunate wanted to establish their authority to finish the religious dispute of Nichiren sect. )。
 しかし日蓮宗の信徒が去る中、感応寺の経営は悪化。寺領増加の願いは認められなかったが、綱吉により元禄13年1700年富くじ(lottery)の興行が幕府から直接認められたことで、寺の経営は安定し、繁栄するようになった(In general Edo Shogunate prohibited lotteries. But this temple Ten-noji was adimitted in 1700 as the officially recognized place for a lottery as an exception, since then the management of it became stable and it became prosperous. )。また富くじの興行は、岡場所の発達をもたらした(Okabasho means the outside place of publicy admitted red light district like Yoshwara, where whorehouses standed side by side)。元禄15年1702年には表門前に新茶屋町と呼ばれる岡場所が形成された。その後、文化8年1811年に目黒の瀧泉寺、湯島天神もまた富くじの興行が公認された。感応寺、瀧泉寺、湯島天神は「江戸の三富」と呼ばれて繁栄することになった。
 → 瀧泉寺大仏について
 しかし、幕府の態度はその後、変化する。
 まず天保4年1833年将軍家斉は寺を日蓮宗に戻すことを命令する。この改宗問題については、天台宗(輪王寺)側は経緯を述べてこの改宗を阻止。その代わりとして長耀山感応寺の名称を日蓮宗に返し、天保3年1833年より護国山天王寺と号して現在に至っている。
 続いて富くじや岡場所についての幕府の態度も変わる。天保12年1841年の天保の改革により、富くじは禁止、岡場所も廃絶された(富くじは天保13年1842年3月8日に一切禁止となった)。
 さらに明治元年1868年の戊辰の役で天王寺は伽藍の多くを焼失。明治に入ると3万4000坪あった敷地のほとんど(元年と明治7年1874年の2度に分けて計3万2000坪近く)を上地させられ、公営墓地とされた(明治7年1874年9月)。天王寺はこの上地に際し、鐘楼、額堂、子院などを失っている。こうした経緯が周囲を墓地化され、墓地の中に取り残されたような天王寺の現在の姿に反映している。
   なお現在、天王寺の大仏前に並んでいる庚申塔もまた興味深い。以下の写真右は元禄五年1692年のものと読める。しかし左側のものの年号は残念ながら読み取れない。

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 正岡子規(慶應3年1867年-明治35年1902年)の以下の5つの句は、第四句で上野の「森のはずれ」としているので谷中の天王寺であることは明らかに思える。第五句は富くじとひっかけているのであろう。明治に入って20年余り。天王寺はまだのどかだったことが伺える(『子規句集』岩波文庫1993年passim)。
 摘草や三寸程の天王寺        明治26年1893年春
 菜の花の野末に低し天王寺      明治26年1893年春
 数珠ひろふ人や彼岸の天王寺     明治27年1894年春
 春風や森のはずれの天王寺      明治27年1894年春
 此頃は蕪(かぶら)引くらん天王寺  明治29年1896年冬
 北原白秋(明治18年1885年-昭和17年1942年)が昭和9年1934年に刊行した歌集『白南風』。これには1926年昭和元年から昭和9年1934年までの作品が収められているが、「天王寺墓畔吟」とあるところ。この天王寺は、谷中の天王寺であろう。そこから天王寺の情景描写らしいものを拾っておく(『北原白秋歌集』岩波文庫1999年pp.163-169)。以下白秋の歌をみると、墓と五重塔が、谷中天王寺を象徴していたことが伺える。白秋の時代は、子規が歌った野の花にあふれたときから、さらに30年。公営墓地はすでにお墓で埋めつくされ、子規が歌った野の花にあふれた情景は消え去っているのではないだろうか。そこには墓と五重塔しか見えない。
    塔(あららぎ)や五重の端反(はぞり)うつくしき春昼(しゅんちう)にしてうかぶ白雲
 声呼ばふ墓地のかかりの夕餉(ゆふげ)どき遊びあかねば子らは愛(かな)しも
 墓の座に鉄砲百合の粉は触れて日の照はげし我はぬかづく
 百日紅(さるすべり)咲きつぐ道は吾が行きて利玄分骨の墓も涼しさ
 小夜中は五重の塔のはしばしに影澄みにけり小糠星屑(こぬかほしくづ)
 金輪際夜闇(こんりんざいやあん)に根生(ねお)ふ姿なり五重の塔は立てりけるかも

 墓と五重塔の選択であれば、重要なシンボルは寛政6年1794年に再建された五重塔だと断言できる(幸田露伴(慶応3年1867-昭和22年1947)の明治25年1892年の小説『五重塔』の舞台である)。三間四方、九輪を含め11丈2尺3寸34mの高さを誇った。くわえて関東大震災そして第二次大戦の空襲を免れて、第二次大戦後まで残っていたのである。ところが、この塔はその後、昭和32年1957年7月、心中放火事件により焼失した。第二次大戦後、法隆寺金堂壁画焼損事故(昭和24年1949年1月)、金閣寺放火事件(昭和25年1950年7月)などに続く文化財の焼失事件だった。
 五重塔がなくなってすでに60年余り。今、天台宗の天王寺、あるいは谷中の天王寺を支えているのは、五重塔の影に隠れた存在だった、日蓮宗の感応寺時代に鋳造されたこの大仏であるように、私には思える(側聞するに本尊として、日蓮宗では曼荼羅を拝み、天台宗では阿弥陀如来あるいは釈迦如来を拝むとのこと。天台宗のこの寺で、如来像は落ち着くところを得たのではないか)。
 なお谷中天王寺内にあった吉祥院は、明治に入ってから廃寺。その本堂(文化3年1806年)は明治16年1883年杉並区高井戸において吉祥院が復興されるとして移築されている(高井戸不動尊。象頭山遍照寺。井の頭線高井戸から環八に沿って徒歩5分。)。この経緯は興味深い。同時にこの建物は天王寺のかつての姿を知る縁(よすが)になるのではないか。

    アクセス:JR日暮里駅南口から左へ 階段道上がりすぐ 徒歩3分
 参照 私の東京案内

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