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芝増上寺について

                          福光 寛     
 聖聡上人により明徳4年1393年に現在の麹町から平河町にかけて開かれた浄土宗鎮西派の大本山。浄土宗の中では、西の知恩院に対して東の大本山の位置。慶長3年1598年に江戸城拡張のため現在地に移された。徳川家康の崇拝帰依を受け、家康の葬儀の祭礼はここで行われた。三河以来、徳川氏が浄土宗であることによる。以後、寛永寺とともに徳川将軍の菩提寺(shogunate family temple)の役割を演じる。幕府から受けた寺領は1万540石と寺領として破格の大きさであった。
 江戸時代にも火災にあっているが、明治に入ってすぐの明治6年1873年に増上寺に、僧侶に神道を教える施設、大教院が置かれると、教院を仏寺におくことは神仏混淆で不浄とみた高知県士族二人が、同年12月31日大殿に放火し、大殿が全焼している。この二人は、別の新潟県士族とともに翌年1月8日には浅草観音堂に放火しようとするも未遂に終わっている。高知県士族の教養の無さには呆れるしかない。
 増上寺をこよなく愛した文人に明治の文豪(great writer)、尾崎紅葉(本名 徳太郎 慶応年1868-明治36年1903年)がいる。増上寺門前の大門の生まれである尾崎は、当時、増上寺内にあった紅葉山からペンネーム紅葉をとったほか、短編「男心は増上寺」も書いている。
 大殿は大正11年1922年伊藤忠太の設計、清水建設施工で再建されるが昭和20年1945年の空襲で再び焼失。時を経て昭和49年1974年大岡實の設計、清水建設・大林組JV施工で再建されたのが現在の大殿である(間口26間余り約48m 奥行25間余り約45m 高さ7丈半約25m 面積10535㎡。平成21年2009年にリニューアルされている)。三解脱門を抜けて階段をあがり、大殿で椅子に座って本尊(the principal object of worship)である阿弥陀仏を拝んでいると、この形は海外の人にも伝わると実感した(椅子席で時間を気にせず本尊と向き合えるのは大変ありがたい)。

大殿と東京タワー 2023年6月7日撮影

 堂塔(temple building)の多くを明治42年1909年の火災と昭和20年1945年の戦災で焼失したが、三解脱門(元和8年1622年再建 間口10間余り約19m 奥行5間約9m 高さ7丈約21m  重要文化財important cultural property)のほか大梵鐘(延宝元年1673年鋳造  高さ1丈約3m  重さ4000貫約15t)を残すほか、実は多くの文化財をなお保有している。その意味で、平成27年2015年4月に宝物展示室がオープンしたことは文化財公開の意味で大変喜ばしい。

三解脱門 1622年再建 重要文化財 2023年6月7日撮影
大梵鐘 1673年鋳造 2023年6月7日撮影

   江戸時代には鐘の音で知られ、川柳で「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「江戸中へ七分通りは響くなり」「西国の果てまで響く芝の鐘」と称された。「今鳴るは芝か上野か浅草か」。ただやたらと鐘の音が取り上げられる増上寺に少し感じるのは、江戸時代、修行僧であふれ、庶民にとっては近寄りがたいイメージである。「増上寺 空に知られた 雲ばかり」は、お堅い増上寺をまさに揶揄している。
 夏目漱石(慶應3年1867年-大正5年1916年)の明治29年1896年の俳句に以下がある。
   凩(こがらし)に早鐘つくや増上寺
 増上寺を語るとき、将軍の霊廟(shogunate mausoleum)の問題を無視できない。今残るものからもその壮麗さが伺える。三解脱門のすぐ左手に二代将軍秀忠の霊廟である台徳院霊廟の惣門(寛永9年1632年)が見える(重要文化財)。このほか三解脱門右手を東京プリンス入り口を超えて進むと七代将軍家継の霊廟、有章院霊廟ニ天門(享保2年1717年)が残る。これら残るものの壮麗さを見るにつけ、霊廟建築のほとんどを二次大戦の空襲のよる火災で焼失したことは残念である(増上寺の左手に秀忠ー台徳院の霊廟があったが、現在は惣門が残るのみ。また増上寺右側には歴代将軍の霊廟があったが、そこが東京プリンスホテルとなり、わずかに七代将軍家継の霊廟である有章院霊廟ニ天門が残されている)。

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有章院霊廟ニ天門

 永井荷風(明治12年1879年-昭和34年1959年)は随筆「霊廟」(明治43年1910年6月)で荷風自身、いわば大人になってからふとしたきっかけで、芝の霊廟建築が、美術的に傑作であることに気づいたことを吐露している。そのほとんどが空襲による火災で失われたことは痛ましい。
 「自分は三門前と呼ぶ車掌の声と共に電車を降りた。そして」「幾年間全く忘れ果ててしまった霊廟の屋根と門とに心付いたのである。」「翌日自分は昨夜降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番端れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮に隣する二代将軍の霊廟に参拝したのである。」「この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大なる美術的傑作品である。」
 さらに「巴里の有名なる建築物に対した時の心持に思い比べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えてくれた」としている。
(なお明治9年1876年に日本を訪れたフランス人エミール・ギメの日本訪問記が最近翻訳されている。岡本嘉子訳『明治日本散策』角川ソフィア文庫平成31年2019年pp.150-154. 先ほど述べた明治6年1973年の放火事件が言及されており、ギメが霊廟建築を僧侶に案内されて見学した様子が語られている。精緻な彩色彫刻、黄金の霊廟の連なり、といった表現を確認できる。「日本は自国の風俗に対し、あまり自信を持っていない。彼らの力となり幸せの源となってきた多くの習俗や制度、考え方さえも、あまりに性急に一掃しようとしている。だがもしかしたら、日本が自分たちを見直すときが、いつに日か訪れるのではなかろうか。」前掲邦訳書p.151)
    北原白秋(明治18年1885年-昭和17年1942年)は、命がけのものとする短歌集『雀の卵』を大正10年1921年に上梓する。大正3年1914年から大正6年1917年の間の作品が収められた『雀の卵』に実は、増上寺と浅草寺を詠んだ歌が収められている。増上寺については、「山内の時雨」と題して以下を詠んでいる(「時雨と霜」の中の一首 『北原白秋歌集』岩波文庫1999年p.89)。
 三縁山増上寺の山門前にふる時雨日がなひぐらしふりにけるかも
 なお浅草寺については「浅草の雪」と題して以下を詠んでいる。
 金竜山浅草寺の朱き山門の雪まつしろに霽(は)れにけるかも

 交通 地下鉄芝公園あるいは御成門から徒歩5分。東京都港区芝公園。
 

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